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前にも断片的に送信しましたが、我々の徳島県神山町大草一族のルーツがほぼ判明しましたので、参考送付します。
我々の12代前で初代の「大草作太夫」は1701年没と墓碑に刻まれています。このような江戸時代初期の平和な時代に、何故神山町に移り住んだのか不思議でしたが、以下の事実が判明しました。
阿波藩3代藩主である「蜂須賀光隆」に、九州中津藩主である「小笠原長次」の娘「金姫」が嫁いでいます。1655年の婚姻として、長次は40歳、光隆は25歳、金姫は15~20歳、作太夫は(60歳没として)15歳となる。年齢的に見て作太夫は金姫が蜂須賀家に嫁いだ時に、これに同行した父又は叔父に随行した可能性がある。(大草一族は小笠原氏の家来筋であることを前提)
光隆の弟である「蜂須賀隆矩(唯月と号す)」は、蜂須賀家の家老である「池田内膳」の養子となるが、この内膳には今の神山町に領地があり、隆矩が病弱であったため、この地に「唯月公別荘」を建て、養生したとの記録がある。以上のことから、神山町の大草一族(現在は12家)は、江戸時代初期に中津藩から阿波藩に移住し、上記別荘に滞在した金姫に随行してこの地に定住したことが考えられる。現在徳島県に居住している神山町以外の大草家(約20家)は、すべて神山町からの移住者となります。
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