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ここで越前島津と大草氏の話から横にそれますが、
前スレッドで島津忠綱が越前の守護になったのは1221年と史料にあり、さらに以前喜連川藩大草氏のスレッドで、足利家(義氏)が最初に三河の守護で関東から進出したのも1221年と史料にある。
1221年といえば朝廷側(後鳥羽上皇)と武家側(北條一族)との天下分け目の争い(承久の乱)の年であり、北條政子の鎌倉幕府恩顧の御家人への大演説で武士はことごとく北條側に付き武家側の大勝利で終結しており、乱後、鎌倉幕府の2代目執権北條義時は承久の乱の論考行賞で朝廷側から没収した地域に守護、地頭を再配置したのではないかと思われる。
このように見てくると、三河で大草氏が没落し、足利家の軍門に下らざるを得なかった直接原因は
1221年の承久の乱との推論が自ずと発生してくる。そうすると三河地方での大草氏の隆盛時代は1192年に源 頼朝が鎌倉幕府を開設する以前の平安時代の可能性が出てきそうである。この問題はスレッド題名と違うので後日に譲ることにする。
さて大草氏の出自は本来藤原氏支流とされ、元々朝廷側の武家のはずであり、承久の乱で後鳥羽上皇側の朝廷側につき敗れた結果、その後三河を治めた足利氏や越前若狭を治めた島津家の軍門にくだり1326年に鎌倉幕府の北條執権が倒され、やがて足利尊氏と後醍醐天皇が対立する南北朝時代には全国の大草家は足利尊氏側の北朝につく大草家と後醍醐天皇側の南朝に付く大草家に分かれて行くようです。つづく
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