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薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎(その5)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 2月 4日(日)15時38分51秒
  ここで越前島津と大草氏の話から横にそれますが、
前スレッドで島津忠綱が越前の守護になったのは1221年と史料にあり、さらに以前喜連川藩大草氏のスレッドで、足利家(義氏)が最初に三河の守護で関東から進出したのも1221年と史料にある。

1221年といえば朝廷側(後鳥羽上皇)と武家側(北條一族)との天下分け目の争い(承久の乱)の年であり、北條政子の鎌倉幕府恩顧の御家人への大演説で武士はことごとく北條側に付き武家側の大勝利で終結しており、乱後、鎌倉幕府の2代目執権北條義時は承久の乱の論考行賞で朝廷側から没収した地域に守護、地頭を再配置したのではないかと思われる。

このように見てくると、三河で大草氏が没落し、足利家の軍門に下らざるを得なかった直接原因は
1221年の承久の乱との推論が自ずと発生してくる。そうすると三河地方での大草氏の隆盛時代は1192年に源 頼朝が鎌倉幕府を開設する以前の平安時代の可能性が出てきそうである。この問題はスレッド題名と違うので後日に譲ることにする。

さて大草氏の出自は本来藤原氏支流とされ、元々朝廷側の武家のはずであり、承久の乱で後鳥羽上皇側の朝廷側につき敗れた結果、その後三河を治めた足利氏や越前若狭を治めた島津家の軍門にくだり1326年に鎌倉幕府の北條執権が倒され、やがて足利尊氏と後醍醐天皇が対立する南北朝時代には全国の大草家は足利尊氏側の北朝につく大草家と後醍醐天皇側の南朝に付く大草家に分かれて行くようです。つづく
 

薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎(その4)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 2月 4日(日)14時17分19秒
  下記のURLは福井県史の大草氏に関するページであるが
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-03-02-06.htm

その1行目に「1336年、越前の南朝(後醍醐天皇)方の勢力に対した北朝(足利)方の人物として大草伊豆守が見える」と記されている。1336年といえば、1348年の四条畷の戦いで大草公経(きんつね)が戦死する12年前のことであり、その頃には三河だけでなく若狭にまで大草一族は在住していたようである。

一方別な越前島津氏の史料では初代薩摩島津忠久が鎌倉幕府により越前の守護職にも任ぜられたのは1221年で、その時初代忠久は2男の忠綱を越前に配したが、1279年には忠綱の子忠行は
播磨の国(兵庫県)に地頭職で国替えされ、越前での島津氏時代は58年間のようである。

そうすると福井県史に登場する大草伊豆守は1336年であり、越前島津氏時代は1221〜1279年であり、大草伊豆守より65年前の大草の祖先が越前島津氏に仕え島津と一緒に播磨の国に移動した大草氏がいた可能性が発生する。つづく
 

お礼

 投稿者:meg  投稿日:2007年 2月 1日(木)11時23分27秒
  @nkouさん、いつもホームページの管理、編集有難うございます。  

研人さん はじめまして

 投稿者:@nkou  投稿日:2007年 1月31日(水)17時22分27秒
  HomePage担当の 佐賀の@nkouです
研人さんは、東京にお住まいですね 実家やご親戚はどちらでしょう?
ときどき、ここも のぞいてくださいネ

Megさん ご執筆有り難うございます
研人さんへのお返事や 足利氏と大草氏の関係は ↓のレポート集に改編しました

現在、ご執筆中の 【薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎】は連載が終わり次第
また そちらに加筆することにします

http://www.ookusa.net/roots/reports.html

 

(無題)

 投稿者:大草研人  投稿日:2007年 1月30日(火)13時50分6秒
  東京に住んでます  

薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎(その3)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月29日(月)23時18分10秒
  さて、三河の大草家が薩摩の島津藩に仕えた理由のより確かな新状況証拠ですが、これは喜連川大草家の三河出自の状況証拠を調べている最中に見つけたものです。それは、このホームページに「大草家のリンク集」というファイルに「福井県史:中世」という小ファイルがあります。ここに「若狭の奉公衆大草氏」と言う解説記事があり、その中の上から5行目に、越前島津家文書とかかれ、それに「大くさ持継」という人が記載されています。

島津家と言えば薩摩の島津家とばかり思っていましたが、添付のURL

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/rekishi/akamatu/syozamurai/shimadu1.htm

を調べると越前の島津家は薩摩島津家の分家になるようです。そうすると越前に大草氏が居たことは上記の「若狭の奉公衆大草氏」であきらかであり、そのうえ「大くさ持継」という名が越前島津家文書に掲載されていることは、鹿児島に移住する前に大草家は越前島津家と何らかの関係が在ったと思われます。つづく
 

無題

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月29日(月)22時29分1秒
  研人さん。貴方の「私のご先祖様は誰なんですか?」との疑問を解いたわけではありませんが、

これまで投稿された大草家の2つの系図(藤原氏系と清和源氏系)の存在理由を2つの状況証拠(大草氏は藤原氏支流であり、一方では小笠原家との姻戚関係)に照らせば大草家のご先祖は血統から見た場合は藤原鎌足であり、姻戚関係から見た場合は清和天皇となるという系図も間違いではないとの小生の見方を紹介したまでです。

余談ですが徳川家康は全く源氏とは血縁も姻戚関係も無いのに勝手に出自を清和源氏にしてしまいましたが、それにくらぶれば大草家の清和源氏の系図は姻戚関係にあった小笠原氏がれっきとした清和源氏であり、紛れも無い清和源氏だと思いますよ。

ところで研人さんは今どちらにお住まいでご先祖は何県ですか、さしつかえなければ教えてください。それではまた。
 

(無題)

 投稿者:大草研人  投稿日:2007年 1月25日(木)14時14分35秒
  megさんありがとうございました  

薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎(その2)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月24日(水)23時11分49秒
  愛知三河の大草氏がはるばる九州の果ての薩摩島津藩にどのような縁があって仕えたのか?

この理由は歴史上で大草氏と島津氏の出会の機会があったかどうかにも依ると思い、当初それは、
1335年に京都で足利尊氏が後醍醐天皇側の軍に破れ、一時九州に逃れた際に足利尊氏の奉公衆である大草氏も当然尊氏と一緒に九州に逃れたのではないかと想像されます。

そして後日尊氏が源頼朝の鎌倉幕府時代からの源氏恩顧の九州地方の守護だった島津氏、大友氏、少弐氏の援軍を率いて東上して、湊川の戦いで勝利を収める戦は「湊川の戦い」としてあまりにも有名です。

この時の九州から湊川に東上する期間に大草氏と島津氏の出会いの機会があったものと推定し、それが縁と成り、後日足利尊氏の死後、大草氏は尊氏から還付されていた大草郷を足利一族の仁木氏の守護代西郷氏に没収された際に、大草氏の誰かが島津氏を頼って九州の薩摩の国まで落ち延びたのではないかと想像していましたが、今回その状況証拠よりも信憑性のある状況証拠が見当たりましたので次回に新説を紹介したいと思います。つづく
 

訂正

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月23日(火)11時20分29秒
  下記スレッドで大阪狭山市の久夫足氏となっていますが、久夫氏の誤りです。失礼しました。  

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