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薩摩島津藩に仕えた大草氏の謎(その1)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月22日(月)23時06分5秒
  この島津藩に仕えた大草一族の末裔で現在このホームページに登録参加しているのは、北九州市在住の満州雄氏、大阪狭山市の久夫足氏、私(仁)ですが、一族の本拠は旧薩摩藩の都城(現在の宮崎県)、そう、今回宮崎県の知事に当選した そのまんま東氏の出身地都城市です。

現在都城市の島津家史料館には家臣の系図が残されており、その大草家の系図の書き出しには「何某代より御家に参り御奉公仕り候や相知れず」と記されてい増す。何某代とは大草家のことか、島津家のことか分りませんが、要はいつ頃から島津家に仕えたのか不明ということでろう。

それに続いて、大草宮内左衛門という人が「慶長5年(1600年)9月15日に関が原の乱の節戦死仕り候」と書かれ、江戸末期までの系図が残されています。

そして三河で発祥した大草家の家紋(琴柱に松皮菱)が付いた刀の鍔を今でも私が所持しており、どのようにして、どのような理由で愛知三河の大草氏が関門海峡を越えてはるばる九州の果ての薩摩島津藩に来たのか、この謎が今回のテーマです。つづく
 

訂正

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月22日(月)11時31分57秒
  下記スレッド中に家紋の記述で「松川菱」となっていますが、「松皮菱」に訂正します。
変換もれでした。
 

補足

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月20日(土)12時49分9秒
  研人さん、少々補足します。

前スレッドで大草氏は藤原氏支流で、その藤原氏の始祖は藤原鎌足と記述しましたが、これまでこのホームページに投稿された大草さんの家系図には大草家の祖先を藤原鎌足と書かれた系図と清和天皇と書かれた系図があったと記憶しています。

果たしてどちらが正解でしょうか?私は血統で見た場合は藤原鎌足を祖先とする系図が正しいとおもいますが、姻戚関係で見た場合は清和天皇を祖先とする系図も間違いではないと思います。

理由は清和天皇を祖先とする系図の根拠は大草氏は三河時代(1300年代?)に小笠原家と姻戚関係を結び、徳川幕府時代の旗本大草家では江戸末期まで小笠原家から嫁を取り、連綿と姻戚関係が続いています。このことは現在東京在住の淳一氏の大祖父が江戸麻布の小笠原家で誕生したといわれていることからも明らかです。その小笠原氏は清和天皇を祖先とする清和源氏の一族です。

この永い大草家と小笠原家の姻戚関係の中で小笠原家から嫁ではなく、婿養子を迎えた大草家があったことは十分予測されます。その大草家の当主が自分の氏族(小笠原家)の祖先(清和天皇)に
大草家を接木してできたのが、清和天皇を祖先とする系図ではないかと思われます。

それでは小笠原家から婿養子に来た分際で、なぜ大草家を清和天皇を祖先とする系図にしたのか?これも推測ですが、当時権力を握っていた足利家も清和天皇を祖先とする清和源氏の一族だったためにその方が生きるためには得策と判断したのではないかと思います。そのために足利幕府の奉公衆(旗本)になれたのかも分りません。

しかし同じ清和源氏でも足利氏を源氏の本流とすれば小笠原氏は源氏の支流であり、更に大草氏の基は藤原氏であり、途中から小笠原氏が清和源氏系にしたことは足利一族一派にはみえみえであったものと想像されます。足利時代には小笠原氏ですら同じ清和源氏でありながら優遇されたポストには就けず、阿波(徳島)の守護になった小笠原氏は1年足らずで足利一族の細川家に代わられています。よって大草家は清和源氏足利体制の下では大草城をおわれ、いくら能力があっても奉公衆が精一杯ではなかったのでしょうか。

最後に家紋の変遷の話ですが、小笠原家から大草家に婿養子に来た大草家の当主が祖先の系図を清和天皇に変更するのと同じように、基の大草家の家紋(琴柱に松川菱)から松川菱を取り外し琴柱の中に小笠原家の家紋(三階菱)をそっくりはめ込み、小笠原支流の大草家の新たな家紋(琴柱に三階菱)の家紋に変更したのではないかと推察しています。

それにしろ松川菱と三階菱はよく似ており全く違和感がありません。まるで大草家と小笠原家は先に家紋を見比べて姻戚関係を結んだようにもおもわれます。このことはホームページの冒頭に掲載された家紋でも確認できます。
 

初めまして

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月16日(火)23時15分42秒
  研人さん,初めまして?、それとも以前登場されたことがありましたか?
現在高校生でしょうか、若い人に大草氏のルーツに興味を持っていただき、嬉しく思います。

大草氏は史跡(大草城址等)や無形文化(大草庖刀式や武家料理書)遺産はありますが、それらがいつ誰によって作られたのかの史料が少なく、まだまだ謎がたくさんあります。今後とも興味を持ち続けてください。

ところでお問い合わせの件「私の先祖様は誰なんですか」は、結論は史料がなく分りません。
特に大草氏を誰がいつ、どこで名乗ったのか全く分りません。ただ血統からいえば大草氏は藤原氏支流とされていますから、藤原一族の誰かが大草氏を名乗ったと推測されます。

その藤原氏の始祖は中臣鎌足(後の藤原鎌足)とされ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を助けて平城京(奈良)の大極殿で蘇我入鹿を倒し、大化の改新(645年)に寄与した人です。だから血統から観れば貴方も大草一族の祖先は藤原鎌足ということになります。

藤原氏は平安時代に一番隆盛を極め当時の皇太子にことごとく娘を嫁がせ天皇の后にして行き摂政・関白の権力をほしいままにしましたことは歴史で学ばれたと思います。
 

(無題)

 投稿者:大草研人  投稿日:2007年 1月16日(火)14時26分20秒
  私のご先祖様は誰なんですか?  

大草研人です

 投稿者:大草研人  投稿日:2007年 1月16日(火)14時07分30秒
  俺も17歳の大草研人です。  

足利氏と大草氏の関係(その5)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月15日(月)23時27分55秒
  前スレッドで述べた、大草氏は足利氏が1221年に三河に進出する以前に三河に在住していたことは、本氏家伝という書に「尊氏より三河大草郷を還付の教書を賜う」との記述があるらしく「 」内で還付と書かれていることからも、かって大草氏が支配していた大草郷を足利氏が召し上げていたことをうかがわせる史実からも裏付けされると思う。

さて喜連川大草家が仕えた、喜連川足利家の先祖は鎌倉公方である。鎌倉公方とは京都の室町幕府の関東支店のような位置ずけで、初代の鎌倉公方は足利尊氏の3男基氏である。

既にこのころは三河の大草氏は足利氏の軍門に下り尊氏の時代には足利氏の奉公衆(徳川幕府の旗本に相当)になリ下がっており、鎌倉公方が置かれた際に三河から足利基氏に従い鎌倉に行った大草氏がいたのではないかと思われる。

或いは1221年の三河に最初に守護で来た足利義氏、2代目の守護である泰氏も代替わりには三河から足利へ帰省しており、そのような移動の際に奉公衆の大草氏も足利に随行した可能性もある。そのような大草氏が喜連川藩創立で足利家が復興した際に仕えた可能性もある。

以上のように見てくると何れにしろ喜連川大草家のルーツは三河の可能性が大であり、その三河に1221年に足利家が守護職で進出して来た時に従わざるを得ない状態になり、それが縁で三河大草氏の一部が連綿と江戸末期まで喜連川足利家に仕えた喜連川大草家であり尚氏、康弘氏のご先祖ということである。以上荒っぽい推測と仮説ですが、これををたたき台にしてより真実に近い仮説が発見できることを願っております。

次回は喜連川大草家のルーツを調べている最中に、薩摩の島津家に仕えた我が大草家がどのような理由があって九州最南端まで来たのか、これまでの仮説を否定できる新発見があったので、それを書き込みます。
 

足利氏と大草氏の関係(その4)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月14日(日)23時35分6秒
  さて足利喜連川藩に仕えた大草家はどこから来たのでしょうか?これが当スレッドの本論ですが前置きが長くなりました。喜連川大草家の尚氏は昨年11月23日の投稿文で大草家は足利喜連川藩の創立から仕えて来たといわれ現在足利家、大草家とも18代目とのことで、それ以前は不明であると11月18日のメールリンクでは述べておられます。

喜連川足利家が豊臣秀吉により再興許可されるまでは、どこで足利家に大草家が仕え始めたのか、このホームページは大草氏のルーツ探索も目的の1つになっていますので、尚氏、康弘氏を置いて推測するのは僭越ですがお許しいただきたいと思います。

足利家は源氏の名門で始祖は源 義家の3男源 義国が現在の下野国足利荘(現在の栃木県)を領有し子孫が初代足利義康姓を名乗って足利家の始祖となったようです。一方の大草氏は同じく関東武士で同じ下野の出自かといえば、全くその状況証拠は小生の浅学では見当たりません。

よって大草家と足利家の最初の出会いの場は荒っぽい推測ですが下野(栃木県)を含めた関東ではなさそうです。そして鎌倉北條執権時代に3代目足利義氏(尊氏の5代前)が北條泰時の娘婿となり、1221年に三河の守護職に任ぜられ、以後足利家は8代目尊氏時代を経て三河尾張地域で勢力を拡張しこの地域ほぼ足利一族で固めて行くようです。

ここで三河尾張地区に大草城址や大草神社や大草という地名が存在することを忘れるわけにはいきません。そこで1221年に足利義氏が最初に三河に守護職で赴任して以来、足利尊氏の代に隆盛を極め、大草氏も足利家に仕えてから後の時代に、はたして大草氏が三河で城を造り大草という地名を残せただろうかと言えば、ノーと言わざるを得ません。

と言うことは大草氏は足利氏が三河に進出する1221年以前に三河尾張地域で城を持ち、広大な土地を所有していたと推測できます。よって大草氏と足利氏の最初の出会いの場所は大草の領有する三河に足利家が守護職で赴任する1221年頃であったことが推測できます。つづく
 

足利氏と大草氏の関係(その3)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月 5日(金)23時44分7秒
  喜連川藩の史料では、喜連川藩は参勤交代を免れていたようです。参勤交代の目的は徳川幕府が藩の財政を適当に削いで藩に力をつけさせないようにし,かつ人質を江戸に置かせ藩に謀反を起こさせないようにする目的もあったと言われていますが、喜連川藩足利家だけはどうして参勤交代を免れたのでしょうか?

財政に余裕のない5000石の小藩説、室町幕府の将軍家で特別優遇説もあるようですが、
私説は終生5000石に据え置いた目的と同じく、室町幕府の将軍家の末裔に対する徳川幕府の警戒感から、参勤交代の大名行列を足利家にさせることは、旧将軍家の諸国と民衆へのPRデモ行進となり、武家・武士の本流である源氏再興の願望を醸成しかねないとの危惧と警戒があったためではないかと思います。
 

足利氏と大草氏の関係(その2)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月 5日(金)00時15分31秒
  本論の前に豊臣秀吉と徳川家康の喜連川での足利家の再興を推測してみますと、
秀吉の場合、天下統一のためには東国に味方となる武将(家)を一つでも増やしておきたいのが本音があったのではないでしょうか、ましてそれが由緒ある足利一族であればお家を再興しておけばいつ錦の御旗に足利家を利用できるときが来るやも知れぬとの打算があったとしても不思議ではない様に思われます。

一方家康は三河の豪族松平家の出自であり、家康と言えどもこの先天下に君臨するには、家柄に劣等感と引け目を持っていたと言われ、松平姓を徳川姓に改姓したのもそのためと言われています。しかも徳川と言う姓は源氏の正統で子孫が絶えた得川氏(新田義貞の祖先の系統)からとって命名して、以後徳川家康は自分の出自を源氏と捏造して称していたようです。

そのような関係から名実ともに源氏の正統である足利家を大事にして、わずか5000石ながら藩として処遇し一国一城を与えていたのではないでしょうか、普通藩を任される場合は1万石以上でそれ以下は直参旗本か奉公人のようですが、5千石で藩を任されるのはやはり源氏の正統であったために破格の扱いにしたようです。

しかしそれ以上に加増しなかった理由は弱体化したとはいえ、かっての室町幕府の将軍家の末裔の家柄であり、いつ誰が足利家を担いで反徳川勢力を形成するやも知れないとの家康の深謀遠慮が末代まであったのではないかと推察されます。
 

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