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足利氏と大草氏の関係(その1)

 投稿者:meg  投稿日:2007年 1月 3日(水)15時11分20秒
  昨日京都市北区にある足利家の菩提寺等持院に参拝してきました。ここは尊氏のお墓があり、歴代足利将軍の木造が安置されていることでも有名です。庭園は夢窓国師の作といわれています。
訪問目的は大草氏がある時期〔1300年頃〕三河で足利家の配下に組み込まれたとのいわれと因縁があり一度訪問してみたいと思っていたためです。

ところで昨年11月23日に栃木県在住の大草 尚氏より栃木県喜連川の大草氏のご先祖のルーツの紹介投稿があり、徳川幕府の喜連川藩〔藩主:足利氏〕に連綿と江戸末期まで仕えていた大草氏が在ったことが明らかになりました。

このことは三河で大草氏が足利氏の2番奉公集〔旗本〕として仕え、また大草公経(きんつね)が1348年の四条畷の戦いで戦死〔太平記記載〕し、その子孫が大草領を尊氏に還付されたとの史実以来、連綿と足利氏に仕えた大草氏が存在したことを意味し驚きでした。

そこで尚氏の説明やその他の史料でも喜連川藩足利氏の再興は豊臣秀吉の肝いりでなされたようであり、そのときに大草氏も喜連川足利氏仕えた様ですが、その時期は1585年〔秀吉関白に就任〕以降と推察されます。

ここで新たな問題は喜連川藩の大草家の出自と足利幕府が滅亡して織田信長が天下を採り、秀吉の時代に喜連川足利家が再興される迄、大草家はどこでどのように忍従生活をしていたのでしょうか
次回以降その辺りを手探りで仮説して見たいと思います。
 

映画鑑賞

 投稿者:meg  投稿日:2006年12月 9日(土)11時12分20秒
  先週NHKのクローズアップ現代でクリントイーストウッド監督が出演して次の映画が紹介されていましたので、昨日(12/8)駆け込みで「父親達の星条旗」の上映最終日だったので見てきました。硫黄島の日米の激戦をアメリカ軍側からの視点で捉えた映画で、今日からは日本軍側から捉えた2部作目の「硫黄島からの手紙」が封切られます。

丁度「ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)」を連載した後でしたから、きっとルソン島の戦場もアメリカの圧倒的な物量に押されて同じ状態だったのでは?と思いながら、一方では無謀な戦争を仕掛けたものだと12月8日の日本のハワイ真珠湾奇襲の日米開戦日にちなんで改めて思った次第です。

2部作目も見に行こうと思いますが、戦場のむごさや、兵士の心の思いや、遺族の悲しみを覆い隠し、国の大義名分だけで戦争に導く人の心はどこから来るのか、生じるのか改めて考えさせられました。
 

Megさん お疲れさまでした

 投稿者:@nkou  投稿日:2006年12月 4日(月)17時28分5秒
  考察レポート №6
 ルソン島にみたまを尋ねて は みごと完結しました

お疲れさま〜

http://www.ookusa.net/roots/report-06.html

 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その26

 投稿者:meg  投稿日:2006年12月 2日(土)14時52分18秒
  フィリピンから宮崎に帰って来て青島の海と熱帯樹、バギオの気候に似ているえびの高原、本当に今はフィリピンを想い出さしてくれる処だと思い宮崎に住む幸福を感謝している。

私は今ペンを走らせながら命がけの、そして悲しい、苦しい旅ではあったけれども、未だかって経験したことのない感動の思い出が全身を包み震えさえ覚えるのである。それは夫の屍の埋まっている地であるばかりでなく、人間のふるさとに帰ったような不思議な気持ちを起こさせる島であったからである。両家の父母が健在であれば今度の巡拝を本当に喜んでくれたことであろう。

この本の執筆に着手以来雑事にも追われ、早くも3か月が経ってしまった。しかしそれが幸いして何という因縁であろうか、6月29日の新聞に戦没者の叙位、叙勲が発表されたのである。
もしフィリピンに巡拝に行かなかったなら、叙勲についてはどこか心の隅に政府の人気取り政策ではなかろうか、こんな叙勲に喜んでいたら人がわらうだろうという気持もしたであろう。
しかし今はそうではない、ここにそのことをここに書けるのがむしろ嬉しいのである。

祖国の楯となって死んだ者が千里彼方の南方の島々に、水漬く屍、草蒸す屍となりはて、時の経過とともに忘れられていく姿を目の当たりに見た私は、叙勲こそ国が戦没者のことを忘れていない証しだということが分かったのである。

日本国天皇は故正八位大草繁光に正七位勲四等旭日章をを贈る。

昭和43年6月29日
                  内角総理大臣  佐藤栄作
                  総理府賞勲局長 岩倉規夫

政府はその当然のことを、国として又人間としての義務を果たしてくれたのであろう。娘夫婦に孫二人そろって夫の霊前にぬかずき叙勲を報告し夫を祝福したのである。

昭和43年7月2日 夫繁光の命日にこれを記する。        (完)

以上で連載を終了します。
連載の動機は大阪府狭山市在住の久夫氏にこの著書をお借りして読んでみたところ、自分自身も日本本土への空襲や原爆投下は当時の記録フィルムでいくらか知識もありますが、太平洋戦争の南方諸島での戦いの実態は殆ど知らず、一般的にも知らされていないのではないかとの思いと、

他にも大草一族の中には肉親を南方諸国の戦闘で亡くされた遺族が居られれば、その実態と戦争のむごさとむなしさ、また大草睦子さんの平和の希求と祈念が伝われば睦子さんの遺志にも沿えるのではないかと思った次第です。

連載の途中@nkouさんの計らいで各種のキーワードの検索で外部からも検索が出来るようにしていただいたことは睦子さんの遺志にも沿いまた喜びでもあろうかと思います。改めてお礼と感謝申し上げます。

最後に大草睦子さんご夫妻のご冥福をお祈り申し上げ、お子(玲子さんご夫婦)さま、お二人のお孫さんのご健勝を祈念申し上げたいと思います、その後お元気でお暮らしのことと思います。又この著書を先の10/7の全国集会に持参してお貸しいただいた久夫さんにお礼申し上げます。
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その25

 投稿者:meg  投稿日:2006年12月 1日(金)23時11分42秒
  3月13日
今日はいよいよ日本へ出発の日である。
今回の巡拝をふりかって思うことは、歴史に書かれた真実も嘘も国の盛衰も人間の欲と心が織りなす産物であると悟るならば、恐れることなく書かれた歴史と語り継がれ事実を万人に知らすことをはばかっては成らないと思う。全ての人は教訓を得るために歴史の事実を知る権利があるの筈である。

そして人々はその中から真理を掴み、聡明に人類の平和と幸福を願い行動が起こせるはずである。
歴史こそは後世の教訓であり、平和を導く基である。このように思い及んだ時、太平洋戦争に完膚無き敗北を期した日本がこれから平和を維持し発展して、国民が幸福な暮らしをして行くには、しっかりと憲法を守り戦争を仕掛けないことであると思う。

さて、ホテルの出発は昼食を済まして午後2時頃の予定であり、午前中は近くの市内見物と売店を見て回っておみやげを購入してきた。バスは丁度14時にホテルを出発してマニラ空港へ向かった。空港には到着したとき迎えていただいた現地の方やフィリピン駐在の日本人の方が見送りに来ていただいていた、各々名残りを惜しみながら搭乗てつずきを済まして機上の人となった。

ジェット機はぐんぐん高度を上げてマニラの市街小さくなって行った。再びルソン島を上空から見下ろし47万7千の英霊に安らかにお眠り下さい、と心に祈った。
「繁光さん!あなたの御霊も乗りましたか、一緒に帰りましょうね」と言って私はそっとハンドバックを骨壺のように膝に抱きかかえ、いつの間にか眠りに落ちていた。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その24

 投稿者:Meg  投稿日:2006年12月 1日(金)07時58分38秒
     バスは16時過ぎにようやくマニラ市内の最後の宿泊場所である、エル、プレジデントホテルに到着した。バスから降りて道路脇の海辺でマニラ湾、コレヒドール島、バターン半島に散華された戦没者の追悼式が行われたが、ここで初めて丹羽団長は海上の空に向かって「重治!静かに眠れ」と叫ばれた。つられてもう一人のご老人も「父さんは、もう来れんぞ、安らかにな!」と叫ばれ号泣され、やがて団長と副団長の手でブーゲンビリヤの花の輪が海に浮かべられた。

ホテルに帰るとレイテ島班、セブ、ミンダナオ班の方々も帰って来られていた。部屋でシャワーを浴びて身繕いも終え晩餐会の大広間へ行くとウエイターが配膳中であったので隅においてあるピアノを弾いてもいいかと尋ねたら快諾してくれたので、自分で伴奏しながら滝 廉太郎の「荒城の月」を歌っていたところ、一行の男性数人がよってこられてご一緒に歌っていただき、あとで異国で慰問団の雰囲気に合う日本の歌を合唱できたことを喜んでおられた。

最後の晩餐も長年の夢であった戦没者の慰霊を現地で無事済ますことが出来た安堵感に満ちた雰囲気の中で9時頃にお開きとなった。自室に戻りベランダに出てみた、いよいよフィリピン最後の夜である。夫の眠る島だと思う時、切ない慕情が迫ってくる。空には一面に星が瞬いている、戦没者の英霊が星となって瞬いているのではないかと思えてきた。5日間の戦跡が次々に脳裏に浮かんでくる、苦しく悲しい、何時恨まれておそわれるか知れぬ命がけの旅であった。

しかしあの優しい現地の警官、運転手、フィリピンのご遺族、みんな暖かく我々を迎えてくれた、そしてマニラの大新聞は1面に写真入りで来訪を報道し歓迎の意を表していたという。戦没者も今初めてこの地で本当に安らかに眠りに入られることができよう。青い空と海、明るい太陽、真紅のブーゲンビリアの花、7100もの島から成るフィリピンをスペインからの独立運動を立ち上げ一生を捧げたホセ・リサールは真珠の国と言ったそうである。

ホセ・リサールは母型に日本人の血が流れていて1888年(明治21年)に来日して1ヶ月半滞在し、その間「おせいさん」という日本女性と親交を深めていたが独立運動のために帰国し1896年に35歳でスペイン側に捉えられ銃殺処刑されたとのことである。そしてその時東京で滞在した東京のホテルの庭には生誕100年を記念してホセ・リサールの碑が建てられているそうである。今に思えば何んとフィリピンと日本の因縁浅からぬことであろうか。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その23

 投稿者:Meg  投稿日:2006年12月 1日(金)07時57分1秒
                  ーモンテンルパの石の下ー
先ほどの追悼式の最後で一人のご婦人が突然泣きながら草の上に座り込んで、誰はばかることなく「おとうさ〜ん!早く私を呼んで下さい、私も一緒にここに眠らして下さい」と亡きご主人に向かって声を限りにさけばれた,それに釣られるよう、一人のご老人が「息子よ〜父さんだぞ〜」といって嗚咽され、想いは皆同じ遺族の心である、あちこちですすり泣きが聞こえ私も堪えきれなくなった。

それから全員バスに乗り、ルソン島最大の湖であるラグナ湖の沿岸を走り、カルンパンに差し掛かると、ここは山下将軍の処刑された地であるとの案内があった。そして間もなくモンテンルパに到着し、かって日本の将兵が捕虜となり収監されていたニューピリビッット監獄の玄関前を通り広大な敷地を巻いて収容所の真後ろの日本人処刑者の墓地に着いた。山下将軍以下多くの将兵の方々がここに収容され処刑されたことを思うと胸が痛む思いであった。

処刑者の墓は50センチほどの高さの墓石が何十となく建てられていたが名前などは彫ってなかった。一つ一つのお墓に手分けして線香を手向けて回った。アジア解放という名の下に南方諸島に送られて戦死された同胞である。その方々は皆従容として死につかれたと思うと胸が締め付けられるほどである。

いかに思えども戦争は悲惨である。戦争こそ全人類の一大悲劇である。戦争は悪魔の仕業である
戦争を起こすのは軍隊でも武器でもない、それらは防衛のためには必要である。人間が物質欲、権力欲に狂ったとき他国を奪う猛獣と化すのである。そのような心が戦争を起こすのである。今こそ人類愛をはぐくむべきである。

モンテンルパでの追悼を終え次にケソン市に到着した。そこの中華料理店で一同昼食を済ませ12時50分に再び出発して、ワンダムの下流にある2カ所の洞窟に到着した。かって日本軍の防空壕であったらしく、終戦時にはここに多くの日本兵の遺体があったという。ここでも追悼式が行われた。

伊東団長のお話では、ここを中心に数十キロの範囲がマニラ東方山岳地帯と言われ、日本軍のルソン島3大拠点の一つであったとのこと、横山中傷以下7万5千の将兵が3月〜6月まで圧倒的に優勢な米軍に抗して戦い続け全滅したとのこと。話によれば、この山奥にはまだ沢山の白骨が散乱しているが、余りにも険しい岩山を超えねばならぬので、遺骨収集団も行けなかったとのことである。

思えば必死となれば常識では考えられない気力と体力を振り絞って、自分の体をそのような人跡未踏の場所にまで運んだのである。巡礼の旅も今日で4日目、ここが巡拝最後の地点なので心の中で宮崎県ご出身の戦没者と知人の鹿児島県の伊集院守様の遺族のご冥福を山に向かってお祈り申し上げた。

続いて「海行かば」の歌声が岩に浸み入り歌声はすすり泣きに変わった。一人のご婦人はお子さまの結婚式の写真を高く掲げて御霊にかざしておられた。女手一つでお育てになったのであろう、哀れな妻の姿を自分に重ねて思われた。又一人の青年が「おとうさ〜ん、僕だムネチカだよ〜」と叫ばれ泣きながら岩にしがみつかれた。このようにフィリピン最後の追悼式は心ゆくまで厳かに行われた。つづく

http://www.ookusa.net/roots/report-06.html

 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その22

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月28日(火)17時00分53秒
  それから11時50分にバスはサンホセというところに着き、ドライブインで昼食を採った。
昼食時に同じテーブルでこれまで同乗してくれていた現地人の警察官と一緒になった。

片言の英語で身振り手振り話をしていたが、私の家族の話になり、子供は何人かと聞いてきたので
女の子が2人いたが、一人は4才で亡くなり、一人は結婚して孫が2人居るというと、娘婿の職業を聞かれてので「養子に来てくれて、現在宮崎大学の教官をしている」とつぎはぎの英語で何とか通じたようである。

昼食後バスはひたすらマニラへ向けて走り続け15時にはサンイルデフォンゾに着き、アツクレの戦跡のみゆる場所でこの辺りで戦没された追悼式が行われた。ご主人を亡くされた湯川さんと言われるご婦人がメモを出されて次のような歌を詠まれた。

靖国の宮に御霊は鎮まるも
おりおりは帰れ、妻の夢路に
おりおりは帰れ、母の夢路に

と切々と詠まれ、一同の同感を刺激し涙を誘った。バスに戻ると途中、歩きながら同行の男性老人遺族から「奥様のご主人は医者でしたな、医者はんまで死なるる激しい戦闘だったんですな」と感慨深げにいわれ、肉親の戦死をやむなしと、諦め、納得されているようであった。

バスは更に3時間ほど南下して走り続け、夕暮れ迫るマニラ市内のエル・プレジデントホテルにやっとのことで到着した。一同壮大な夕日の沈むのをレストランで見ながら食事をとったが、道中の疲れと慰霊地での悲しみを引きずり静かな晩餐であった。

3月12日
昨晩は疲れで皆熟睡されたのか出発のロビーに集合された皆さんも元気そうであった。バスは7時50分に出発して9時半頃サントトーマスに着いた。ここでも追悼式がもたれた。
タヤバス州ウミライ、キャピテ州リミッド、カランバン等で戦死された方のご遺族からのお手紙もお供えした。

特に宮崎駅まで駆けつけて私の手を握りしめ「頼みますよ」と言われた有馬とき様と児玉繁乃様老婦人から戦没されたご令息への手紙は、ここが一番戦没地に近い追悼場所と思われるので戦没地の方向を向いて拝礼し捧げて、母上様の子息を思う気持ちをお伝えしたのであった。

特に有馬様は戦時中に既に戦争未亡人あられながら、更に3人のご令息を戦地に送り、お二人を亡くされた方であられるが、戦後も気丈夫で一途に奉仕の仕事を続けてこられたご立派な方である。
つづく
 

感謝

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月28日(火)12時18分1秒
  @nkouさん、ご配慮有り難うございます。
生々しい、戦争のむごさを初めて知らされた思いです。
約48万人もの日本兵がフィリピンで戦没し、未だに険しい山奥には草むす屍が散乱放置されていることは遺族しか知らないのか、知らされていないのか本当に驚きです。

私たちが産まれて2,3年後の話ですが、このような戦闘が南方諸島で繰り広げられていたとは
戦後戦争を美化した戦争映画で部分的にしか知りませんが、現実の戦争はいかに国民を悲しませていることか、現実は違うようです。

そのような実体が書かれた手記がご配慮により一人でも多くの人に検索され、戦争のむごさ、平和の尊さが理解されれば故人となられた睦子さんも幸いではないでしょうか。
ご配慮に感謝申し上げます。

お陰でワープロも大分上手くなりましたが、キーボードのミスタッチが最近多くなり困っています
それでは又大詰めを続けます。
 

ルソン島にみたまをたずねて

 投稿者:佐賀の@nkou  投稿日:2006年11月27日(月)16時36分21秒
  仁さん  頑張ったので、文字入力が上手になったことでしょう(笑)

このレポートは、部外者にも読んで頂けるよう

【フィリピン,ルソン島,ルソン島にみたまをたずねて,従軍記,戦没者慰霊,激戦地を訪ねて,大草睦子,遺骨収集,ルソン島,激戦地,戦跡巡拝,大草一族の会】などのキィワードで

外部検索にかかりやすいように、検索ロボット命令を埋め込んで宣伝することにしました

http://www.ookusa.net/roots/report-06.html

 

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