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今回で連載を終わる予定ですしたが、省略するにはまとまりがつかず、又勿体ない箇所もあり、後1,2回続けることにします。
3月11日
昨晩は熟睡できて昨日の不調は回復して朝の気分は爽快であった。今日は約250キロを走ってマニラへ着かねばならない。往時に立ち寄ったバンバンを通過した。ここはかって夫が居た第四野戦病院が置かれ昭和20年6月6日に撤収されバギオ北方へ移動したとのこと、「バンバンよ、さようなら」。バスは9時頃にアリタオに着いた。
するとバスの周りにどこからともなく子供達が集まってきて物乞いをしてきた。するとどなたかが窓を開けてキャンディーをばらまかれたところ一斉に子等が群がり拾い始めた。終戦後の日本の子供が米軍進駐軍に物乞いしていた光景が思い出された。思わず私は差し上げる物があれば、外に出て手渡しましょうと呼びかけた処、団長がバスに同乗していた警察官に渡して戴きましょうと言われ相応の物が集まり、子供達は警官が子供達を並べて菓子を配るのを目を輝かして順番を待っていた。配り終えてバスが出発すると子供達が一斉に「サンキュー、グッバーイ」と挨拶してくれ、いつまでも手を振ってくれていた。
10時5分頃バスは戦史に名高いバレテ峠に着いた。この戦いは是非とも奇跡的に生還された野原清氏の手記があるので抜粋して掲載さして戴こうと思う。(以下手記より)
「米軍がレイテに上陸以来、制空権のない日本軍は、昼間はジャングルに隠れ、夜になるとカラパオ(水牛)にひかせたソリに武器食料を積んで第一線へと歩き続けた。既に米軍はリンガエ湾に上陸して言語に絶する物量で猛進撃を開始していた。我々は食料も乏しく行きずりに見つけた野生の物を食べながら行軍した、中には飢えに耐えきれず毒豆とも知らず草藪の豆を食べ、命を落とした兵士も数人出た。」
「やがてアリタオで再編成された我々は、敵の側面を衝くべく行動を開始した。ピンキャンの大渓谷の岩場をよじ登り、岩を噛む激流を38回も渡り、標高1700メートルのイムガン山の陣地に着いた。人間が一度も斧を入れたことのない様なジャングルの茂みに横穴を掘り、最前線での生活に入った。」
「雨期も近づいており毎日雨に悩まされ霧に煙るサラサク峠も見える、終日日も差し込まずジメジメしたジャングルには山蛭や毛穴に入り込み吸血する赤虫、汗と血にまみれ入浴できない体は異臭を放ち、体に湧くシラミとかゆみにに悩まされ熟睡も出来ず、食料支援もままならず次第に体力を消耗していった。」
米軍に対する側面攻撃が開始されるに従い、陣地の所在が察知され、敵は徹底した砲撃を加え始めた、爆撃機がイムガン山めがけて爆弾の雨を降らせ、ナパーム弾はジャングルを焼き払い、1トン爆弾は大地をくつがえし、震動さした、日本軍も必死の抵抗を連日行い死闘を続けたが戦友は次々に倒れ鉄兜をかぶり微笑んだように戦死した者、手足を砲弾に吹き飛ばされて死んだもの、頭が半分吹き飛んだもの、彼等戦友に土を掛ける余裕もくれない敵の攻撃による戦況は涙なしに思い出すことは出来ない」
「サラサク峠は交通の要衝ゆえ敵、味方とも何回もの争奪が繰り返された天王山である。昭和20年3月30日は敵陣を奪還すべく決死突入を命じられた我々の中隊は、佐々木准尉の指揮する第一小隊を先頭に突撃を敢行した。機関銃、自動小銃、あらゆる砲弾が前後左右に火柱を上げ炸裂し、至近弾で私は右の鼓膜が破られた、敵の火炎放射器の炎は地上を舐めつくしジャングルを燃やした
それでも日本兵はひるまず敵陣地に接近した、中には火炎が軍服に付き死んでいった者もいた。
まさに生き地獄である。敵陣地から英語の大声が聞こえ、暫くして機関銃が止んだ、様子を見計らい突入した。」敵は一時退散した様だ。
第一小隊の生存者は8名であった、やがて後方から第三小隊が到着し補強され、早速そこに塹壕を掘った、背丈ぐらい塹壕を掘った処に、今度は敵の逆襲が始まった、今度は彼我ところを変えての攻防となった。重機関銃がうなりを上げ、真っ赤に焼けた小銃に水を掛けて撃ち続けた、死んだ戦友の銃を取って戦った。それでも火力、機銃の差はどうしようもなく、火炎の中で部隊は殆ど全滅した、4ヶ月に亘る永い死闘であった、時に6月10日である。」
「戦争が終わり20年がたってしまった、戦場に散った戦友の屍は今ではジャングルに覆われ草むす屍となっていることだろう、今私は戦場で倒れた戦友の冥福を祈りながら世界に平和と愛をよびかけるバチカンの丘に立っているそして平和と愛の真理を懸命に生きようと思っている」以上カトリック司祭の野原清氏の手記より。
何と悲惨な記録であろう読むにさえ堪えぬ心地である。一行はバレテ峠の小高い丘に登った、そこには米兵の記念碑が立てられ、団長の話では米軍の戦没者2365柱、日本兵の柱7403と記されているとのことである。
一行は遙かにイムガン山をじっと見つめておごそかに追悼式を行った、ここでも御霊に届けとばかりに「海ゆかば」を唱ったのであった。一人の老人が近くにうずくまって泣き崩れられた、一方、一人の娘さんが「おにいさ〜ん、お父さんも、お母さんも亡くなって私一人で会いに来ましたよ〜」と泣き叫ばれた。限りなき哀れさと追慕の情を残して一行はバスに乗り込んだ。青年協力隊の白木 博さんもジープでとうとうここ迄来てくださった。青年ともここでお別れである、記念に1枚写真を撮らして貰った。つづく
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