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ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その21

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月27日(月)14時29分22秒
  今回で連載を終わる予定ですしたが、省略するにはまとまりがつかず、又勿体ない箇所もあり、後1,2回続けることにします。

3月11日
昨晩は熟睡できて昨日の不調は回復して朝の気分は爽快であった。今日は約250キロを走ってマニラへ着かねばならない。往時に立ち寄ったバンバンを通過した。ここはかって夫が居た第四野戦病院が置かれ昭和20年6月6日に撤収されバギオ北方へ移動したとのこと、「バンバンよ、さようなら」。バスは9時頃にアリタオに着いた。

するとバスの周りにどこからともなく子供達が集まってきて物乞いをしてきた。するとどなたかが窓を開けてキャンディーをばらまかれたところ一斉に子等が群がり拾い始めた。終戦後の日本の子供が米軍進駐軍に物乞いしていた光景が思い出された。思わず私は差し上げる物があれば、外に出て手渡しましょうと呼びかけた処、団長がバスに同乗していた警察官に渡して戴きましょうと言われ相応の物が集まり、子供達は警官が子供達を並べて菓子を配るのを目を輝かして順番を待っていた。配り終えてバスが出発すると子供達が一斉に「サンキュー、グッバーイ」と挨拶してくれ、いつまでも手を振ってくれていた。

10時5分頃バスは戦史に名高いバレテ峠に着いた。この戦いは是非とも奇跡的に生還された野原清氏の手記があるので抜粋して掲載さして戴こうと思う。(以下手記より)

「米軍がレイテに上陸以来、制空権のない日本軍は、昼間はジャングルに隠れ、夜になるとカラパオ(水牛)にひかせたソリに武器食料を積んで第一線へと歩き続けた。既に米軍はリンガエ湾に上陸して言語に絶する物量で猛進撃を開始していた。我々は食料も乏しく行きずりに見つけた野生の物を食べながら行軍した、中には飢えに耐えきれず毒豆とも知らず草藪の豆を食べ、命を落とした兵士も数人出た。」

「やがてアリタオで再編成された我々は、敵の側面を衝くべく行動を開始した。ピンキャンの大渓谷の岩場をよじ登り、岩を噛む激流を38回も渡り、標高1700メートルのイムガン山の陣地に着いた。人間が一度も斧を入れたことのない様なジャングルの茂みに横穴を掘り、最前線での生活に入った。」

「雨期も近づいており毎日雨に悩まされ霧に煙るサラサク峠も見える、終日日も差し込まずジメジメしたジャングルには山蛭や毛穴に入り込み吸血する赤虫、汗と血にまみれ入浴できない体は異臭を放ち、体に湧くシラミとかゆみにに悩まされ熟睡も出来ず、食料支援もままならず次第に体力を消耗していった。」

米軍に対する側面攻撃が開始されるに従い、陣地の所在が察知され、敵は徹底した砲撃を加え始めた、爆撃機がイムガン山めがけて爆弾の雨を降らせ、ナパーム弾はジャングルを焼き払い、1トン爆弾は大地をくつがえし、震動さした、日本軍も必死の抵抗を連日行い死闘を続けたが戦友は次々に倒れ鉄兜をかぶり微笑んだように戦死した者、手足を砲弾に吹き飛ばされて死んだもの、頭が半分吹き飛んだもの、彼等戦友に土を掛ける余裕もくれない敵の攻撃による戦況は涙なしに思い出すことは出来ない」

「サラサク峠は交通の要衝ゆえ敵、味方とも何回もの争奪が繰り返された天王山である。昭和20年3月30日は敵陣を奪還すべく決死突入を命じられた我々の中隊は、佐々木准尉の指揮する第一小隊を先頭に突撃を敢行した。機関銃、自動小銃、あらゆる砲弾が前後左右に火柱を上げ炸裂し、至近弾で私は右の鼓膜が破られた、敵の火炎放射器の炎は地上を舐めつくしジャングルを燃やした
それでも日本兵はひるまず敵陣地に接近した、中には火炎が軍服に付き死んでいった者もいた。
まさに生き地獄である。敵陣地から英語の大声が聞こえ、暫くして機関銃が止んだ、様子を見計らい突入した。」敵は一時退散した様だ。

第一小隊の生存者は8名であった、やがて後方から第三小隊が到着し補強され、早速そこに塹壕を掘った、背丈ぐらい塹壕を掘った処に、今度は敵の逆襲が始まった、今度は彼我ところを変えての攻防となった。重機関銃がうなりを上げ、真っ赤に焼けた小銃に水を掛けて撃ち続けた、死んだ戦友の銃を取って戦った。それでも火力、機銃の差はどうしようもなく、火炎の中で部隊は殆ど全滅した、4ヶ月に亘る永い死闘であった、時に6月10日である。」

「戦争が終わり20年がたってしまった、戦場に散った戦友の屍は今ではジャングルに覆われ草むす屍となっていることだろう、今私は戦場で倒れた戦友の冥福を祈りながら世界に平和と愛をよびかけるバチカンの丘に立っているそして平和と愛の真理を懸命に生きようと思っている」以上カトリック司祭の野原清氏の手記より。

何と悲惨な記録であろう読むにさえ堪えぬ心地である。一行はバレテ峠の小高い丘に登った、そこには米兵の記念碑が立てられ、団長の話では米軍の戦没者2365柱、日本兵の柱7403と記されているとのことである。

一行は遙かにイムガン山をじっと見つめておごそかに追悼式を行った、ここでも御霊に届けとばかりに「海ゆかば」を唱ったのであった。一人の老人が近くにうずくまって泣き崩れられた、一方、一人の娘さんが「おにいさ〜ん、お父さんも、お母さんも亡くなって私一人で会いに来ましたよ〜」と泣き叫ばれた。限りなき哀れさと追慕の情を残して一行はバスに乗り込んだ。青年協力隊の白木 博さんもジープでとうとうここ迄来てくださった。青年ともここでお別れである、記念に1枚写真を撮らして貰った。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その20

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月26日(日)11時49分25秒
  夫達が最期を遂げた辺りでの慰霊を終えて、バスは再びバギオへ向かう、道は次第に下り逆になり松林の合間を縫っていく。夫の御霊に会えて一生の念願が叶った。もう死んでも良いという気持ちになった。すると急に気分が悪くなり、めまいと吐き気がしてきて寒気がし始めた。

縦横に揺さぶられるバスの中で倒れそうになった。昨夜の不眠やこれまでの疲労、夫の戦没地まで来れた気のゆるみなどが重なったのであろう、身の置き場のない苦しみである。それでも夫達はもっと大変な苦しみを味わった事を思うい歯を食いしばって耐えた。

約1時間ほどしてアンブクフオと言うところに到着した。バスが止まった瞬間窓の外にどぉと吐いてしまった。幸いに同乗されていた小松様に薬を戴きイスに横になっていたら伊東副班長が非常に心配されて「ここからジープでバギオ迄送らせますから、バギオから飛行機でマニラに帰って待っていて下さい」と言われてビックリして我に返った。

私はまだ各地点に宮崎の方々から頼まれたお供え物がある。「いいえ、一人帰るわけにはいきません。死んでも良いですから連れて行って下さい」と懇願した。副班長は「私たちには責任があります」と真剣な顔で言われた。まったくそのとおりである。

何とふがいない今の体の状態だろうか、これではいけないと思い気力を振り絞って再度「大丈夫です一過性の車酔いで直ぐ直ります、どうぞ連れて行って下さい」と再度お願いした。
副団長も私の懇願に納得されたように皆が向かっている追悼式の場所に向かわれたので、私もふらふらになりながら後を追って追悼式に参加した。

そこはダムがあり、すばらしい景色の場所である。一行は追悼式後ダムのほとりの簡単な休憩場所でパインズホテルから積み込んだ昼食を採られた。自分は先ほど吐いたばかりで食欲もないので一人でバスに戻りイスに腰掛けていたら一人のはつらつとした24,5才の青年がバスをのぞき込んで「宮崎から誰か来て居られませんか」という。

「私は宮崎からです」というと、青年は「そうですか、僕は宮崎大学農学部出身の白木ひろしといいます。おばさんのお宅は宮崎のどちらですか」と尋ねるので「私は宮大農学部の正門前に住んでいます、あなたは同行者のお一人ですか」と尋ねたところ「いいえ、僕は今バギオに住んでいます、政府から派遣されて2年前に来ました、何かのお役に立てばと思ってパインズホテルからジープでついて来たのです」との返事に懐かしさを覚え、つい皆が帰ってくるまで話をしていた。

青年海外協力隊の一員らしい、青年は生き生きとした顔で「苦労はありますが生き甲斐があります、僕の任務はあと1年ですが頑張ります」と言われたのを聞いて思わず「ご苦労さまで、有り難うございます」といって手を合わせたい気持ちになった。このような方々の奉仕活動が日本軍のフィリピンでの戦争の傷跡の償いに少しでもなればよいと願わずにはおれなかった。

一方先ほど伊東副班長がジープでバギオまで送らせますからと言われたのは、この学生さんのことだったのかとふと気づいたのだったが、皆がバスに戻ってくる頃には飲んだ薬の薬効と青年との会話で大分気分も体調も良くなってきていた。つづく

以上抜粋しながら全編116頁の内76頁まで進んできましたが、後数カ所の巡礼地迄の状況が綴られていますが、これまでの内容で悲惨な戦争の状況と悲しくむなしい巡礼の様子は十分想像戴けると思います。つきましては大草睦子さんの亡くなられたご主人(軍医繁光氏)の慰霊地までの記載も終わりましたので、後1回でこのシリーズを終了したいと思います。meg。
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 9

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月24日(金)21時38分37秒
  なお終戦2ヶ月ほど前にの地点から30キロ奥に旭737部隊の患者収容所が設置されていたので、そこの傷病兵達のために夫は衛生兵数人と共にバンバンを6月6日に出発して何日か掛けて行ってみたらしいが、収容所は既に閉鎖されてしまっていたので直ぐに13日には引き返そうとしたらしいが、時既に帰りの道は敵に封鎖されていたため、やむなくポントック52キロの地点に転進したのだとのことである。

その時は既に皆体力を消耗しきって弱っていたらしく、特に夫は41才の年輩でもあるしバンバンを出発する時から栄養失調とマラリヤに苦しみ薬品も無かったと言うことを、その当時夫に同行されていた徳増様のご連絡できいて来たが、そのような体で敵の目を逃れ、山をよじ登り、谷を渡りジャングルを押し分け、任務遂行のため、今私が立っている辺りもあえぎあえぎ通ったのではなかろうかと想像すると、そこに座り込んでしまいそうになり、またもや涙が止めどなく溢れてきた。夫が死んだのはそれから2週間後である。

熊本を昭和19年12月2日に発って約7ヶ月後で、しかも終戦まで僅か2ヶ月である。そこまで日本軍が追い込まれていることは本土には全く知らされていなかったのである。しかも軍医が現地に着くなり、将兵と一緒に敵との最前線をさまよいながら治療に当たらねばならないほど日本軍は追い込まれていたのである。夫も衛生兵もやせ細り、眼ばかりがぎょろっと悲しく光り死んでいったのであろう、それを思うとこれだけどこに涙があるのかと思うぐらい涙が止めどなくあふれ出るのであった。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 8

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月24日(金)12時40分3秒
  道子が死にましたことで私は暫くきちがいの様に錯乱しておりました。夕方になると「道子ちゃん、道子ちゃん!」と呼びながら、あの広い屋敷中を探し回りました。それに貴方のお留守中に大事な子供を死なせたことで死んでお詫びするより他ないと思い詰めました。

ところがその頃、可愛い我が子を亡くされた多くのお母さん方が泣きながら「お医者さんとこの子供さんも亡くなられたのだから、諦めもつく」と言って居られるのを聞いて「道子の死は、他のお母さんの慰みにもなっているのだ」と思うと、徐々に現実を受け入れ、生きる元気も出てきました。

利口で可愛かった道子も今は貴方の元で幸せだろうと思っています。幸い玲子が二人の女の孫を産んでくれました、その長女に「道子」という名をつけて貰いました。きっと亡くなった道子の分も長生きしてくれることを願っています。

「繁光様!今日までの私の間違いだらけの生活をどうぞおゆるし下さい。そして何時までも未熟な私をお導き下さい。やがて私もこの世での使命を終えましたらどうぞ私をおそばに呼んでください。貴方のところで共に安らかに眠りたいと思います。」と私は必死の思いで夫に向かって心の中で叫んだのであった。それからその後の大草家のこと、私の実家のことなど心の中で話してあげた。

そして山又山の峰の奥深く、夫の居ます処はあの辺りかと遙かに見渡して涙の目にしっかり焼き付けたのであった。悲しみをこらえにこらえて笑いに紛らわして生きて来た20数年間の涙がせきをきってほとばしり出たのである。誰もこの大きな悲しみは知るよしもないと思ったら、激しい涙と共に悲しみがこみ上げてきたのである。そして私はここで一番大事な次のことをはっきり言って全身全霊を以てお詫びしたのである。

「繁光様、貴方が戦死ではなく戦病死であられたと言うことをどんなにか世間に憚って来ましたが、それは大きな間違いでした。多くの戦病死の方方もそうであったように、食うに食無く、飲む水もなくあえぎつつの戦いの中で傷病兵の治療に専念され、ついに果てましし、名誉ある戦病死であられたのだ」と言うことが今こそよく分かりました。さぞご無念であったことでしょう。
このことは日本に帰りましたら全ての戦病死のご遺族にも伝えたいと思います。

為政者によって国中を一丸として戦争に突き進み、国に殉じて死んだ戦没者を「名誉ある戦死」と呼ぶことをあざ笑う人もいるが、戦跡を尋ねて壮絶な戦闘と飢えと病で息絶えた戦死者の苦しみヲ想像して欲しいものである。

突然隣に立って居られたご婦人が「お父さん、私です!」と叫んで大地に崩れ落ち身をもがいて泣かれた。戦況説明の方も咄嗟に口をつぐんで説明を一時中断された。私もそれにつられて全身から力が失せて気が遠くなりそうであった。このまま死ねばよいと思った。その瞬間夫の両親が私の体を支えててくれているような錯覚を覚えた。つづく
 

考察レホートの追加

 投稿者:佐賀の@nkou  投稿日:2006年11月24日(金)10時18分38秒
  大草 尚 氏にご投稿いただいた【喜連川足利家と当家】についてのレポートを考察レホート№7として追加しました。

また、仁氏に頑張って紹介頂いている【ルソン島にみたまをたずねて】も、№6-2として、掲示板投稿  その17まで転記しております。

http://www.ookusa.net/roots/reports.html

 

喜連川足利家と当家

 投稿者:大草 尚  投稿日:2006年11月23日(木)21時47分24秒
   はじめまして栃木県さくら市喜連川在住です。私は十八代目の53歳。
当家は喜連川足利家とともに歩んできました。足利家と喜連川のかかわりと当家の近代史を紹介します。
<足利家と喜連川>
 鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏は延元三年(1338)征夷大将軍となり、室町幕府を開く。
 尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東を特に重視し、その子基氏を鎌倉公方として鎌倉の置き、東国の政治を行わせた。しかし、永亨十年(1438)、将軍の権力の強化をねらった六代将軍義教によって鎌倉公方持氏は滅ぼされる。その後、持氏の子成氏が鎌倉に下って鎌倉公方を復活させるが、成氏も上杉氏と対立するようになり鎌倉を追われ古河(埼玉県古河市)に逃れ、ここを本拠として古河公方となる。しかし、五代義氏が娘を残して没し、後継がいないまま、古河公方は断絶となる。将軍家は十五代義昭で滅亡する。
 古河公方二代政氏の次男義明は、下総小弓城にあり、小弓公方と称されていた。この娘であり塩谷雅久の妻嶋子は、奥州仕置きのため宇都宮に陣を取る豊臣秀吉を訪ね雅久に二心がなかったことを弁明。その際、古河公方の断絶を聞いた秀吉はそれを惜しみ、嶋子の弟国朝に子が公方の義氏の娘氏女を娶らせ、古河公方を継がせた。古河公方の再興である。
 しかし、国朝は文禄の役に出陣の途中、安芸の国で急死する。国朝の弟途頼氏がその跡を継ぎ、喜連川に居館を定めた。足利家の血を引く喜連川氏の統治のはじまりである。
 徳川幕府は喜連川足利氏を足利将軍の末裔として特別に扱った。そのため、喜連川氏は外様大名であっても高い格式を誇るとともに、参勤交代、助郷・国役などの諸役が免除されるなどの特権を与えられたと伝えられる。           (喜連川歴史資料)
<当家の近代史>
 当家の家系は足利氏が喜連川を統治した時からはじまります。足利氏の家来として古河より従って来たものと思います。喜連川足利氏も現在十八代目であり、当家も同様になります。近代について紹介します。
十三代:久敬。喜連川藩足利家の御典医、漢方医。号は子礼。江戸にて亀田鵬斎や梶次郎    に学び帰って藩公に侍し、藩政の任に当たった。御典医の傍ら家塾を開いて弟子    を教育した。
十四代:久道。号は鴻堆。江戸両国・薬研堀の磯野底績に漢方を、亀田綾瀬に儒学を、書    を幕末の三筆の一人巻菱湖について就学4年。戊辰の役に際し、家老職として重    責を担う。明治になり私塾帯経学舎を興し、弟子を教育した。龍光寺の足利家歴    代の墓の南側のその功績の内容を縦4m横2mの石に彫った碑があります。
十五代:育太郎。号は雲令。江戸にて皇漢を学び、帯経学舎を発展させた。祖父三代にわ    たった90年間の私塾は大正中期に閉塾した。
十六代:寛。医院を開業。昭和21〜26年喜連川町長を務める。
十七代:英俊。医院を継承。警察医、学校医、体育協会長などを長年務める。平成2年死    去に伴い閉院。
十八代:尚。平成3年、さくら市氏家にて大草レディスクリニック開院。現在に至る。

 皆さんの一族の中にこのような家があることをお知らせできること嬉しく思います。
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 7

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月23日(木)11時11分14秒
  それから玲子だけは命に換えても一生懸命育てました。お陰で立派に成人してくれました。貴方に似て万事控えめな誠実なすばらしい娘です。それに玲子の夫もそれ以上に立派で愛情深い勤勉家です。

みんな貴方のみたまのお導きだと思っております。もったいないほどのせめてもの幸せです、有り難うございます。ただ長女の道子が貴方が出征された同じ年に貴方の後を追うようにした昇天してしまいました。きっと貴方も覚えていらっしゃることでしょうが、先発隊で熊本を出発される昭和19年12月2日の夜、電話で道子と最後のさよならの会話をされたのでしたね。

あの頃はもう医者の家にも薬品店にも薬が無くて困っておりました。昼も夜も父上お一人の手ではどうにもならない程の乳児の患者が親に抱かれて連れてこられて来ておりましたが、介無く次々に
多くの幼子が死にました。そして道子もその子らと共に4才で死んだのでした。

あの時ひっきりなしの空襲をものともせず、昭和20年7月7日〜17日までの死に至る10日間、医師会長の小牧先生は「大草先生が戦地で働いておられるのに。そのお嬢さんのご病気を放っておかれましょうか」と言って、鉄兜に身を固め、ご老体もいとわず治療のためにお通い下さいました御恩は忘れられることが出来ませんのに、その小牧先生も数年前にお亡くなりになりました。
つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 6

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月22日(水)21時59分59秒
  バギオから40分ほどして、夫が死んだポントック道まで21キロ地点まできた。ここから更に約30キロ北方の山奥に夫の遺体が埋められている辺りがある筈である。このポントックへの道は狭くて曲がりくねっており日本兵が現地ゲリラに悩まされ命を落とし、戦病死した場所だという。

又病院が移動する時は弱り果てて自決できない傷病兵は戦友が涙をこらえて自殺の幇助をされたという。軍医や衛生兵すら次々にマラリヤに掛かったり、飢え死にするような有様であり、その惨状は思うだけでも胸が張り裂けんばかりである。

この中には日本赤十字社朝鮮支部から派遣された数百名の看護婦も居られたらしく、奇跡の生還をされた清水直子様の追想文の中には「女の身で自らも空腹と疲労にあえぎながら、傷病兵のお世話をしつつ、多くの方が戦没されたがそれは全く地獄絵図さながらの惨状であった」と書いて居られる。

当時41才であった夫は、家では内科医の父と共に自分は外科を担当して開業医として地方の信望を担っていた、特に貧しい人から頼られていた人で静かで心優しい人であった。私は日本から持ってきた梅の花の小枝のはいったビニール袋をそっと開いてみた、するとかすかな香りが漂った。
生前夫がこよなく愛していた庭の月知梅である。又夫愛用のコーヒや持ってきたお米も小高い丘に捧げた、そして娘玲子夫婦と二人の孫の写真も草の上に置いた。皆も線香を手向けたところで団長の追悼の言葉に続き読経が行われた。

その間私は「繁光様、私です。ムツです」と夫の名を心に必死に叫んだ。「ここに来て貴方のご苦労が初めて分かりました。想像も出来なかったことでした。どんなにおつらかったことでしょう。
貴方の遺骨がここにあれば胸に抱いて泣きましょう。宮崎を出発前に奇跡の生還をされた花牟礼第四野戦病院長よりお手紙を戴き、貴方のことを「温厚な立派な方でした、惜しい方を失いました」と涙して書かれて字がにじんだ手紙にご餞別が添えてありました。又帰国したら報告に参ります。

貴方の崇高なお人柄を思います時、自分のつたなさが恥ずかしゅうございます。貴方は私にはすぎた方であられました。友達も皆そういっております。本当に私は貴方の妻であることを誇りに思っております。
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 5

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月21日(火)11時34分44秒
  3月10日
フィリピンでの第2夜がバギオ市のパインズホテルで明けた。出発は8時半である、今日のバスは昨日のバスよりもっとお粗末である、乗降口は6カ所あるがドアもなくそれにクッションもなくお尻が痛い、2台のバスに分乗して先ず市内の日本人墓地に向かった、但しその慰霊塔は大正11年建立と書かれ大正時代に日本人がフィリピンに渡り現地の道路工事に携わり亡くなられた方の碑であった。

その碑をよりどころにして戦没者の合同慰霊祭が行われ現地調達の花輪とそれぞれのお供え物で碑の前は一杯になった、線香が煙る中で丹羽団長の慰霊追悼文のお声は切々として胸を打ちあちこちで嗚咽が聞こえる。戦争への怒りが、肉親を失った悲しみが、はらわたを掻き切られるような呻きである。誰からともなく「海ゆかば、水ずく屍、山ゆかば草むす屍・・」の歌声が起こった。
皆泣きながら、ほとばしる涙を気にすることもなく必死に戦没者に届けとばかりに唱たったのであった。

戦争ゆえ未亡人となって惨めな身を今日まで生きてきた多くの夫人達、「お父さん」と言っても、この世に答えてくれる親愛の父亡く。幼少期を寂しく生きてきた遺児達、可愛い息子を失った老父母達、赤紙一枚の召集令状で大切な肉親を祖国に残し4千キロの南方の島に送られて、我が身を楯にして、飢餓と病と敵弾にさいなまれ、血みどろになって故国の安泰の為に戦い、力つきて空を仰いで死に果てた人々の姿を、この山や松の木は一部始終見ていたのであろう。

松風の音こそ聞けやルソン島 戦い死にしつわものの声

ここでの慰霊を無事終えバスはいよいよ夫達の果てたポンドックへ出発して山上の道を走る。途中のトリニダットは明治時代に渡比してペンケット道建設に従事して生き残られた方々が大部分ここに定着して農地を切り開かれたところらしい。さすがに家並みも整然として農地や野菜畑も管理されて見事である。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 4

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月17日(金)16時22分2秒
  バスは再びビナロナンへ引き返すべく来た道を走りずづける。外は灼熱の太陽である、途中スコールがあり涼しくなる、道ばたでは子供達がスコールをシャワー代わりに体を洗っている。この辺りの人家にはお風呂はないのであろう。いよいよバスは山岳地帯へ登っていくその車中で一句思い浮かんだ。(一部省略)

ポントックへ炎熱のもと亡き夫よ おなじ山路を我もゆくなり

途中キャンプスリーで下車した、ここでの戦闘は熾烈を極め、昭和20年3月下旬に松山中隊が全滅した地点とのことである。出発前に花牟礼先生から戴いた地図には、夫達がいた第4野戦病院は2月25日ここに傷病兵を集め、ここから東方の山の奥へと患者を移送したと書いてある。

少し下ったところに川があるが血の川となったことであろう、川の両岸には、白骨が固まって出来たのではないかと思うような純白の石がごろごろしている。夕暮れ迫る中で追悼式のご婦人の読経が悲しく山にこだまする、妻達はここでも遺児達の成長した写真を山にかざして、亡き夫達に見て貰っているのであった。(一部省略)

バスは更に山道をはうように登り標高1500メートルにある世界中に知られるバギオ市のパインズホテルにについた。今日の行程は12時間、約400キロの旅であった。ホテルに着くや旅の埃を落とす間もなく大ホールで晩餐会が開かれた。現地からはバギオ市の副市長ご夫妻と3名の現地在住の日本人が招かれていた。(一部省略)

丹羽団長は一行を代表して日本が第2次大戦でフィリッピンに非常に迷惑を掛けてしまったことを詫びられ、現地での日本人戦没者の慰霊碑の建立の協力依頼を述べられた。副市長からは大変寛大な厚意のご挨拶を戴きホット胸をなで下ろした。晩餐会を10時頃終了し部屋でシャワーを浴び
11時頃就寝したが、なかなか寝付かれない。(一部省略)

それにしても夫は本当に死んでしまったのだろうか、またもやこんな疑いが胸を去来してきた、
生きていてどこかでひっそり暮らしているのではないだろうか、もしそうであればぜひ会いたい。
死んでしまっているのなら、亡霊になってでも会いに来て欲しい、と思いながらじっ〜と暗い窓を見つめる。

思えば33歳の時に別れて既に私も56才である。その間様々な運命に翻弄されて来たが、1日たりとも夫のこととを思い出さぬ日はなかった。内科医の義父と優しかった義母、外科医の夫と親切だった看護婦さんがたが居た。春の庭には一杯美しい花が咲いて月の夜は私の舞う日本舞踊や琴のしらべを喜んでくてた夫はもういない、何もかにもが夢のように消えてしまった。

あれから親子二人きりの貧しいわびしい生活が始まって早23年みんな昨日の様な気がするのに、仮に夫が生きていたら63才である。けれど今からこそ娘玲子の行く末を見守り、孫の生長をみていたいものを と思った時、涙がごっ〜と溢れてくるのであった。いよいよ明日は夫が命果てましポントック道に行けるのである。

山下泰文将軍もここに移動してきて、市の中央に近いジェネラルホスピタルを方面軍司令部とされたのである。又マニラで3年間その偉容を誇っていた我が国最大の陸軍病院が米軍のリンガエ湾上陸直前にマニラを出発して歴史的な決死の大移動を敢行して、ここバギオに本院と分院を開設し、屋根に上空から一目で見える赤十字の標識を描いて千人の患者を収容していたというのに、米軍のジュータン爆撃によって、昭和20年1月23日に全患者は爆死し勤務員も十数名戦死したとのことである。

そして更に増大する傷病兵を抱えさらに難路を山また山と北上しアシン渓谷へと逃れ、キャンガン、アバンガン、カラバン等に病院を開設したが、その間歩けない患者は自決戦せねばならなかったとのことである。今思うにまさに悲惨きわまる死の敗走であったのだ(元南方第12陸軍病院玉村一雄氏の記録より)。

戦争とは言え余りにも残酷無慈悲で非情すぎる、再び戦争だけは今後絶対にあってはならないと思うことである。血なまぐさいベトナム戦争も一日も早く終わって欲しいと願わずにはおられない。
ところで夫の戦没地はここから北方52キロの地点であるから、この辺りも通ったのではなかろうか、果てしない谷底のジャングルと延々と続く峰峰をさまよいながら、暗澹たる気持ちで闇に紛れていったのであろう。

そしてここは終戦でかろうじて生き残られた日本兵の方々が米軍の捕虜となり集結させられた場所とのことである。時にそれは昭和20年9月22日であったとか、その時夫はここには来れなかったのである。7月2日戦病死と書いてあった広報の冷たい文字が目に浮かぶのであった。つづく
 

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