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ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 3

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月14日(火)22時24分20秒
  なおこのリンガエ湾の北のサンフェルナンドは西山中将率いる旭第23師団が、花牟礼軍医大尉指揮下の第4野戦病院と共に、昭和19年12月18日に門司港を出て以来、多くの将兵と船舶を敵弾で失って、日本最後の船団として13日目の12月30日にかろうじて上陸したところである。

その中に軍医中尉大草繁光も居たはずである。一方マッカーサー率いる大連合軍がここサンフィビアン海岸に上陸したのは昭和20年1月9日だから、それに先立つこと僅か11日前に運良く海難を逃れて上陸した時は既に敵の大軍が背後に迫っていたのである。第23師団は蛇に睨まれたカエル同然に時の戦況はの大勢は既に見通しがついていたのではないだろうか。

それなのに一億総玉砕などと民族の滅亡への戦いのために。むざむざと犬死にするために度比させられたようなものものではなかったろうかとの思いがよぎり23年も昔のことが昨日のように思い出され、胸の痛むような怒りさえ覚えるのである。

しかし絶対そうではないと思い、異国の地で苦闘の果てに戦傷病者の方々と共に死んだこと、それが夫の使命であり運命だったのだ。夫は独りぼっちではないこの地で何十万の方々と一緒なのだ。信義に篤かった夫は今もきっと霊界で情け深い軍医として皆様のお役に立っているに違いない、こう思ってふと我に返りやっと平常心に戻れるような気がした。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その1 2

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月11日(土)23時25分42秒
  バスは次のビナロナインと言うところへ直行して、そこの乾いた田んぼの中で追悼式が行われた。ここは次のマナオアグと共にリンガエン湾からバスで1時間足らずの地点にあり、上陸後の米軍が物量に物を言わせて怒濤のように進撃してきた場所らしい。
この地点は花牟礼先生から戴いた地図に傷病兵の手術に1晩中掛かっていた場所であると記されている。夫もここにいたことがあるのだと思ったら、急に切なくなり涙が溢れてきた。(一部省略)

さてバスは約20分で戦争中連日耳にしたリンガエン湾のサンファビアン海岸に到着した。
ここは米軍が陸海空軍の激しい攻撃で敵前上陸を敢行したした場所で、フィリピン戦史上有名な場所である。雄大な海岸に打ち寄せる波は戦いの全てを知らぬげに悠々とのたうっている。
激しく風に吹かれている椰子の木の葉ずれの音は亡き日本将兵の方々の怒号の声を聞く思いがする。また小高い土手に立って天を仰ぎ遙か彼方の南シナ海の日本の方角を見渡すと感無量である。島崎藤村の「名も知らぬ遠き島より、流れよる椰子のみ1つ・・」の詩に出てくる島とはこの辺りの島だろうか。(一部省略)

制空権を奪った米軍の爆撃機が空に乱舞して、爆弾は日本軍をめがけて天地をゆるがし、湾内を埋め尽くした上陸用舟艇が引きも切らさず襲撃してきたという、これを水際で迎え撃つ日本将兵の壮絶な闘い、そして全員戦傷、戦死。海も岸も血潮に染められたであろう。岸に立ち残った椰子の老木に残された痛ましい弾痕、ただそれだけが二十四年前の人類の悲劇を物語っているようであった。

同行の一人のお年寄りが、たまらず目にハンカチを当て、ご令息の戒名を椰子の木の下にお供えになった、その痛々しいお姿に私は目を背けて涙した、どこからともなく嗚咽が聞こえてくる。暫くして我に返り、誰ともなく遺骨代わりに石ころや貝殻を拾い集めた。

肉親の眠る比島の石ころを 遺骨といとしみひろいあつめつ。

伊東班長の戦況説明は次第に感情の高ぶりと共に涙に濡れて、風に吹かれて良く聞き取れない、
捧げた線香の煙が地をはうようにした消えていった。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その11

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月10日(金)22時46分45秒
  ところでルソン島での戦跡巡拝コースは全行程千数百キロの予定で、その要所要所21カ所を選んでその辺り一帯での戦没者とフリピンの戦没者への追悼式が行われるが、その内容はマバラカットでの式次第に準じて行われる予定である。(一部割愛)

12時頃にタルラックに着いた。ここでも追悼式が行われ、遠く野山を見ている内に、この山々に何千何万の戦没者のみたまがこもって眠って居られることを思い、私はここに自分の夫のためだけに来たのではない、ここに来られなかった多くのご遺族の御真心を預かってきているのであり、日本中のフィリピン戦没者ご遺族の代表で来ているのだと思った時、自然に次の歌がほとばしり出たのである。

あらみたま いざ受けませよ故郷に 君おもう人の あつき祈りを

そしてその歌を持っていたマジックインキで半紙一枚に大きく書き留め、それを大地に置き
みたまよ、みそなわせ給え、と合掌したのであった。追悼式を終え
そこから数分行ったドライブインで下車して、ホテルから持参したランチを取ることになった。
(一部割愛)
食事を終えバスはひた走りにジャングルを切り開いたような道を走る。所々道路脇の草むらに山のように椰子の実が積んである。時々車窓から見る農民達を見ても体格が良いとは思われない、タンパク質は何から摂取しているのであろうか、学校にも行けに子供達がうろついている。

人が字も知らずラジオテレビも見聞きできなかったなら、一体どんな考えを持つのであろう。食って、働いて、寝るだけなら、牛馬と何ら代わらないのではなかろうかと思えてきたら、この辺りの住民がたまらなく可哀想になってきた。つづく
 

ルソン島にみたまを尋ねて(大草睦子著)その10

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月 8日(水)21時51分11秒
  3月9日いよいよ戦跡巡拝の朝である。7時半にバスでホテルを出発して一路目的地へ向かった。(途中割愛)10時半頃世界屈指の米空軍基地クラークフィールドの飛行場を左に見て通過。
ここは昭和20年1月にリンガエ湾に上陸した米軍が怒濤のように南下してきて一大攻防戦を展開したところらしく、ルソン島3大決戦場の1つに数えられている。ここから20分ほど行ったマバラカットで下車して、第1回目の追悼式が挙行された。

ピナツボ山を遙かに展望して伊東班長の当時の戦況説明に耳を傾ける。
生きたまま死なねばならぬ非常な戦いを繰り返し、絶叫して死なれた人々、平和な時は日本本土の故郷で優しかった人々が鬼となって戦いまししみ姿を思って、真心からの追悼を申し上げたが、
皆日本からのおみやげや、現地で求めた花を供えて亡き人の法名やご氏名の書いてある奉書などがならべられて、この辺り一帯での戦死者の法要が営まれた。

読経の後、団長の追悼文が朗読され、懐かしき父母と別れ、愛しき妻や子とも別れ、この異境の地で筆舌に絶する強大な敵を迎え、力の限り、命の限りぶっつかって死なれた方々の悲しい叫び声がひょうひょうと吹く風に乗って、こだまとなって帰ってくるようである。

大粒の涙が止めどなく頬を伝い大地にしみていく、魂の底から悲しみがこみあげてくる。私は列の後ろの方でそっとしゃがみ込み、手のひらを大地についた。日本の将兵の方々の血潮に染まった土だ「おつらかったことでしょう」と私はそっと土に向かって心で叫んだ。つづく
 

お礼

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月 8日(水)11時34分24秒
  @NKOUさん、別途編集保存頂き有り難うございます。
まだ続きますが宜しくお願いします。
これからがクライマックスです。
 

大草睦子さん 著

 投稿者:佐賀の@nkou  投稿日:2006年11月 7日(火)18時26分18秒
  ルソン島にみたまをたずねて

Megさんが、連続で紹介頂いているレポートは
下記に編集保存しております

ぜひ、ご一読ください!

http://www.ookusa.net/roots/reports.html

 

ルソン島にみた間を尋ねて(大草睦子著)その9

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月 6日(月)21時28分44秒
  作戦の全期間を通じ病餓死による損耗は戦死、戦傷死による死者を上回ったとみられる。すなわち食糧不足による栄養失調患者が多発し、加えてマラリヤ、赤痢等が多発したが、作戦準備不足で薬物も殆ど入手できず病餓死者が著しかった様である。

このようにして殉国の軍人軍属など約50万人が異境に屍を晒し草むす屍となっていることを思うと胸は張り裂けるばかりである。私にしてみれば初めて知った戦争の様相は驚き以外の何者でもなかった。数多き英霊を弔うため、この地に無名戦士の墓か碑が建立されることを願ったやまない。

昭和21年5月に都城市役所から届けられた通知書には、バギオ・ポントック52キロの地点にて戦病死と書いてあったため、父も母も私も国に対しての申し訳なさと肩身の狭さを感じていたのであったが、否私達だけではなく多くの戦病死者の遺族が同じ思いをしているのに違いないのである。

これでは死者の霊はいよいよ浮かばれない。あまりにも哀れである。私はそれを確かめてご英霊を慰めて全ての遺族にお伝えしなければならない。つづく。
 

ルソン島にみた間を尋ねて(大草睦子著)その8

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月 4日(土)21時35分11秒
  フィリピンにおける戦闘は終局的に日本が勝利しておれば、泥水をすすり、草を食むでの抗戦もまた各地各島における玉粋も全て名誉を持って迎えられたであろうが、国が破れた以上戦争の犠牲者が顧みられないのもし方のないことであろうか

僅か10ヶ月の間にフィリピン地域だけで50万人近い尊い命が失われ、日本軍の1/4しか残存しなかったことは,この戦闘が文字通り死闘であったことを物語るものであるが、
その戦闘がかくも困難を極めた理由,特質を見てみたい。

フィリピンにおける戦闘の特質(厚生省引き揚げ援護局編:比島方面作戦経過の概要より)
戦闘の概要について別に詳しく掲載されていますが、上記表題についてのみ下記に転記します。

1、現地住民は終始反日,抗日的であった。
2、比島作戦は終始制空権のない戦闘であった。
3、日本軍の戦闘体勢はきわめて不備であった。
4,山岳地帯の戦闘で食料自給が著しく困難であった。
5、病.餓死による損耗が多大であった。

つづく
 

ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著)

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月 4日(土)11時07分48秒
  ホテルでの夕食会には、現地のご夫人3名と吉岡領事ご夫妻,島田栄ご夫妻も出席いただいていた。間もなく食事が一段落するのを見計らって団長が島田氏の通訳でフィリピン側に対して,比島作戦によって我が軍が多大なご迷惑をかけた事に対するお詫びの言葉と戦後のフィリピンの日本に対するご好意並びに今回のご厚情に対して感謝の言葉を述べた後『日本人戦没者のための慰霊碑をご当地に建立させて頂く事についてのご理解とご協力を願いたい』むねの要望をされたのには,さすがの私も厚かましすぎるのではないかと内心ひやりとするものがあった。

団長の話が終わるとフィリピン側の婦人が吉岡領事に促されて挨拶に立たれた,このかたは50歳前後であろうか,フィリピン遺族会副会長のラモール婦人とのこと『戦争は政府と政府がした事であって,戦った将兵には罪はない,まして戦没者には自他ともに気の毒である.今は昔の恨みも忘れて互いに友情としての友好を希求してやまない、したがって日本側の戦没者慰霊碑建設に対しては出来る限りの協力をしたい」と述べられ、


次に挨拶に立たれたバッハ夫人は4年前に日本を訪問した際皇太子ご夫妻の厚いおもてなしを深く感謝し,忘れられない想いでである事を述べられ,「日本人戦没者慰霊碑の建設については,遺族会による建設ではなく,日本国民の総意による日本政府による建設出なければならない』と結ばれた。このご発言には我々一同深い感銘を覚えたのであるが,日本遺族会本部としても非常な関心を持たれたようである。


晩餐会が散会となったのは午後8時過ぎであった。
マニラ防衛戦はフィリピンにおける戦闘の一こまに過ぎないが、岩淵防衛司令官以下の玉すいと市街戦は、マニラの港湾施設と蓄積された軍需品の米軍利用を妨害するため死守を続けた防衛戦であるが、その大惨状は厚生省が作成した戦況資料に詳しくでている。つづく
 

ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著) その 6

 投稿者:meg  投稿日:2006年11月 1日(水)11時36分2秒
  米軍戦没者の慰霊を終えバスは一路宿泊ホテルへ向かった。
ホテルの玄関から椰子の木陰を通して遠くバターン半島に沈む夕日の美しさ壮大さまでが悲しいまでの詩情を沸き立たせるのであった。

戦時中耳なれた激戦地コレヒドール島も遠くかすかに望まれる。夫は何という美しい島に骨をうめたことよ。と、せめてもの慰みであった。過去二回2か年づつ満州に軍医として出征した夫は寒さには懲りていた。ここは炎熱といっても夕方にはいくらか涼しい風が吹き渡る。

「貴方はどこに居られますの?私はここまで貴方をたずねて来ましたのよ、本当に死んでしまわれたのですか?」と夕べの空を見回して小さな声で言ってみた。どっと 涙が溢れてきた。

    敵弾の雨降る海をわたりきて なお果てましし命悲しき。

壮美なること世界一と言われるマニラ湾の夕日に呆然と佇んでいたい気持ちであった。   続く
 

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