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ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著) その 5

 投稿者:meg  投稿日:2006年10月31日(火)21時44分40秒
  続いて一行を乗せたバスは隣接する米軍の墓地を訪れた。広大な土地に壮大な墓地であった。
17、777柱の代理石の十字架が純白の慰霊塔を中心に整然と配置されていた。

アメリカがよその國にその偉容を誇って名誉ある戦没者の慰霊塔を建てているのを観た時、わが四十七万七千の戦没将兵の方々のみたまが哀れでならなかった。フィリピンに日本将兵のための墓らしい墓は1つもないのである。我ら一行はただ激戦の地を尋ね山野に向かって慰霊の言葉を述べ追悼してまわるのである。

一行はかって憎みに憎んだ敵である米軍慰霊塔の前に整列して、今は一切の憎しみがアワの様に消え去って哀れさを覚えつつ敬けんなる祈りを捧げたのであった。
戦争とは何と罪深き所業であろうか。「自分の國の戦没者の慰霊のために戦跡巡拝を致すに当たって現地の國の慰霊塔に先ず拝礼をするのは当然の礼儀であります」との副班長のお言葉は人間として何と快い道義的な満足を私たちに与えたことであろう。
 

ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著) その4

 投稿者:meg  投稿日:2006年10月30日(月)22時30分54秒
  それにしても我々の夫や肉親は時の国是によって、いとしき肉親と離別し、懐かしき祖国を後にした異国に渡り、敵の中に進撃したのである。そして武運つたなく戦没したのであるが、そして今は全ての国民に実情も知らされず忘れ去られているような気がして成らないが、果たしてこれで良いのであろうか

負けたのだから仕方がないと言っても日本の国は立派に復興して存在しているのである。果たして戦没者のことが忘れ去られることが日本国民の将来にとって幸福なのであろうか、勿論先の戦争は全ての日本人を不幸にしたのであって戦没者だけが不幸なのではない。しかし戦没者の身内の者だけが悲しみ泣き濡れて、やがて諦めて老いて死んでいくこれで良いのであろうか

國のため 命ささげし人びとの
     ことを思えば 胸せまりくる。

と勝敗を超えて御詠じくださった天皇様のお情けだけに寄りすがってそのみたまを慰める他にすべのない我々遺族の涙は、日本の将来に礎かたき真の平和と繁栄をもたらすことができるのであろうか、紺碧の空と純白の慰霊塔を前に様々な想念が私の胸を去来するのであった。 つづく。
 

ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著) その3

 投稿者:meg  投稿日:2006年10月29日(日)21時59分2秒
  現地時間15時(日本時間16時)約4時間のフライトで無事マニラ国際空港に到着した。既に全員夏服に着替え南方の国、炎熱の地に立って感無量である。吉岡領事様他フィリピン側からの団体のお迎えを戴き、貝殻で作ったレイを首に掛けて戴き歓迎の意を表された。

一行約100名は派手な色の粗末なバス3代に分乗し、私のバスには現地のご婦人約10名ほどが同乗された。この方達はフィリッピン戦没遺族会の婦人達とのことである。バスは空港から先ずフィリッピン無名戦士の墓へ出発、マニラの市の郊外を左右に揺られ、ブーゲンビリアの花を観ながら無名戦士の慰霊塔前についた。一行は長旅のつかれも見せずバスから降り、そこ近づいた。塔の前には聖火台があり聖火が燃え、それはフィリピン国民の戦没者に対する敬けんな慰霊の真心をあらわし、年中灯されているとのことである。団長と副団長によって大きな花輪が正面の台座に捧げられた。

ここは外国フィリピンである、そしてこの慰霊塔は心ならずも日本軍が最後にフリピン人を敵として戦わねばならなかった結果戦没されたフィリピン戦士の墓である。日本軍がここえ乗り込んできたが故に植民地の領主である米軍と激戦になり全土を焦土化しフィリピン側になんと甚大な迷惑を掛けてしまったことか、戦後20年を経過したとはいえ、今も尚フィリピン人が日本への憎悪が全て消えてしまっているとは思えない。

にもかかわらず日本遺族会のフィリピン戦跡巡拝団を受け入れて、心ゆくまで追悼する機会を我々に与えてくださったフィリピンの偉大なるご厚意を、全ての日本人が感謝しなければ成らないのだと改めて肝に銘じて慰霊塔を仰ぎ深々と礼拝したのであった。つづく
 

ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著) その2

 投稿者:meg  投稿日:2006年10月28日(土)15時19分59秒
  (機上からルソン島を見下ろす)という題名が書き出しである。

前段を略して以下直筆である。

下界は果てしない雲海で明るい太陽に照らされて、まろやかな雲の起伏が時々薄い七色にぼかされて実に美しかった。「下界を観てください雲が切れました。台湾上空と思われます。間もなくバシー海峡に掛かります。ここで海没された方々のために黙祷をお願いします」のアンウンスに全員、身を乗り出し下界を観れば真っ青な海が展開していた。

人々は戦時中この海を、魔の海峡、と呼んでいたのである。空と海上、海底からの敵の攻撃の中を偽装した輸送船で渡航された将兵の方々のご苦労、胸中はいかばかりであられたかと、悲惨な情景を脳裏に描いて、ただひたすらにご冥福を祈るばかりであった。途中一部省略して

「いよいよルソン島北部上空です、ここは巡拝予定には在りませんので、ここでの戦没者のために黙祷をお願いします。」とのアナウンスに、私の全身は電気に触れたような衝撃を覚えた。
窓にすり寄って下界を観れば山また山で姿は黒々としているのであった。
深い感動と感激に、ワッーと叫びたい衝撃を感じたのであった。これがルソン島、フィリッピンだ、夫のが戦没した島だ。

当時41才の夫が総員325名の20代、30代の若い軍医、衛生兵と共に2000人に余る傷病兵を谷間のジャングルを踏み分け、山をよじ登り、何回も何回も引き返しては移送し、衛星道具を抱え、更に食べ物も少ない山奥へと米軍に追われ、現地のゲリラに襲われ、ついに傷病兵と共にマラリヤ蚊、のみ、しらみ、下痢に苦しみ殆どの傷病兵と野戦病院の2/3以上の方々が夫と共に爆死、餓死、病死された山である。

見下ろせば1万メートルの上空から制空権を奪われたら最早お終いと言うことがはっきり分かった様な気がした。しばし冥福して戦没された方々の屍を心の中で胸にい抱き、「さぞおつらかったでしょう」とつぶやいて黙祷を捧げたのであった。以下後日に続く。
 

ルソン島にみたまをたずねて(大草睦子著)

 投稿者:meg  投稿日:2006年10月27日(金)12時52分3秒
  上記題名の本(フィリピン戦跡巡拝記録)を先日の第2回大草一族の全国集会の祭、大阪府在住の
大草久夫氏(宮崎県都城出身:小生とは遠戚関係)からお借りして読んでみた。

涙無くしては読めない戦跡巡拝記録(117頁)である。そのクライマックス部分を久夫氏の了解を得たので一部抜粋して掲載したい。

先ずこの記録は著書の大草睦子さんが56才の時、昭和43年(1968年)に戦跡を巡拝された年に書かれている。既に亡くなられているが存命であれば95才くらいであろうか。
睦子さんの夫(大草繁光さん)は外科医で昭和19年11月に41才で軍医として3回目の招集であったとのこと。因みに昭和19年当時睦子さんは32才で長女3才(昭和19年12月病死)、次女は生後5ヶ月であったことも記されている。

一方夫の繁光氏は第23師団第四野戦病院に配属され宮崎、鹿児島、熊本の軍医25名衛生兵約300名で編成されルソン島の山中奥深く派遣され、終戦時は軍医の半数と約200名が犠牲になりその内のお一人らしい。

生き残った軍医の方から終戦後の報告は「大草さんのご遺体は全ての戦没者同様に荼毘に付し丁重に山中に埋葬しましたが、その際小指を形見として切り取り大切に保管していましたが、米軍に武装解除され時に没収されました」との報告があったと記されている。
著者と戦没された夫君の紹介を前置きして、著書の内容紹介は後刻に譲ることにします。

睦子さんが出発前日靖国神社に参拝され、空路羽田からルソン島(フイリッピン)へ向かわれたのは昭和43年3月8日である。
 

大草家の家紋の変遷について

 投稿者:meg  投稿日:2006年10月14日(土)13時44分2秒
  今回ホームページの表紙の「大草一族の会」のタイトルを挟んで8個の家紋が掲示されましたが
そのうちの上段左端と下段右端に琴柱(ことじ)の家紋がありますが、その違いがお分かりでしょうか?

その違いは琴柱の中のコマの形が微妙に違っています。上段の家紋ではコマの下段が一番幅広く(三階菱)、下段家紋ではコマでは真ん中が幅広く(松皮菱)なっています。

そして上段の琴柱の中の下段が幅広のコマのみの形は三階菱といって、小笠原家の家紋です。
大草家と小笠原家は三河在住時代(1300年代)に姻戚関係を結び江戸末期まで旗本大草家(大草淳一氏の祖先)と姻戚関係が続いています。

そこで小笠原家から養子に来た大草氏(室町時代)が琴柱の中の松皮菱を小笠原氏の三階菱にいれ換えて琴柱に三階菱の家紋ができあがったと推察されます。

このことから大草氏が小笠原氏と姻戚関係を結ぶ以前は琴柱に松皮菱が大草氏の家紋であったと推察できます。何かの政変で島津藩に使えた都城の大草氏は琴柱に松皮菱の家紋であり、小笠原氏との姻戚関係ができる以前に島津藩に仕え、当然小笠原氏との縁戚もないと推定されます。
 

大草香皇子とは?

 投稿者:meg  投稿日:2006年 8月17日(木)10時50分6秒
  相模原の大草さん、ヤーヤーお久しぶりです。
お元気でしたか?
ところで大草香皇子という人は、小生が書物で読んだ記憶では
確か、仁徳天皇の何人かの后の一人(髪長姫)との間に出来た皇子さんの名前だと記憶していますが、もしかすると仁徳天皇ではなかったかも知れません。
そして大草香皇子は政争に巻き込まれて殺され、子孫は残していないのではないかと記憶しています。
違った説があれば是非投稿して下さい。
 

相模原の大草さん

 投稿者:佐賀の@nkou  投稿日:2006年 8月15日(火)09時49分7秒
  第二回の大草家 全国大会のご案内をしたいです

↓のページから ご登録ください

http://www.ookusa.net/formmail.html

 

お久しぶりです

 投稿者:相模原の大草  投稿日:2006年 8月15日(火)00時12分37秒
  久しぶりに来ましたー
たしか2年くらい前に訪れてからというものの・・・・
めぐむさん覚えてませんか?・・・
たまたま調べていたら大草香皇子という人物が出てきたのですが
知っていますか?
 

細川藤孝と大草氏の縁」

 投稿者:meg  投稿日:2006年 6月17日(土)00時46分58秒
  先週のNHK大河ドラマ「功名が辻」は本能寺の変でしたが、その登場人物に明智光秀の娘の嫁ぎ先の細川家の舅(しゅうと)として細川藤孝が本能寺の変の知らせを聞いて、その嫁に明智家と絶縁を告げる場面で、まげをおとし頭を丸めて名も細川幽斉と替えて登場していましたが、

江戸幕府が後日作成した戸籍謄本(寛政重修諸家譜)によれば、当時将軍足利義輝(1546−1568)に仕えていた大草公重(きんしげ)は義輝が三好氏に攻められ自害させられた後、

京都山城に蟄居中を細川幽斉に招かれ京都丹波に移住したと記されています。
元々細川家は足利一族の名門で管領職を永らく努めていましたが、同じ三好氏に追われ都落ちしたようで、同じ足利義輝に仕えていたよしみで大草公重を哀れんで丹波に招いたのではないでしょうか、この大草公重は後の長崎奉行を努める大草能登の守の祖先にあたる人のようです。

余談ですが、この時細川幽斉が明智家と離縁せずにいたら、おそらく豊臣秀吉に攻め滅ぼされていたことでしょう。そして近年細川元総理大臣の誕生もなかったことでしょう。

細川元総理が誰かとの歴史対談で細川家の歴史的文化遺産はことごとく戦争で焼失したと語ったそうで、対談相手はてっきり60年前の日米戦争の空襲で焼失したのかと思っていたとろ、

何んと元総理の戦争とは1467年の応仁の乱のことであったとの逸話があるほど、細川家の歴史は古く、連綿と一定の地位を守り続けている家系であることを再認識させられとの感想をよんだことがあります。

それにしても細川元総理は永い細川家の武家歴史の中で天下を取ったのは自分が初めてでありそれなりの感慨があり満足してあっさり身を引かれたのでしょうか?
 

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