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気長に待って下さい

 投稿者:soichiro  投稿日:2006年 2月20日(月)20時42分24秒
  うちの親せきは、千葉が北の上限ですが、北海道に親せきがあるかどうか、
近所の大草さんに聞いてみます。
ただ、目下のところ、確定申告の用意で多忙なので、桜の散るころには、何か手がかりが
得られればいいのですが。
北海道から嫁に来ている方もいますが、大草ではありません。
徳島から北海道には、一時期だいぶ移住しているようなので、そのころに渡ったのでしょう。
湿しんがひどいので、失礼します。
 

ようこそ!北海道のH大草さん

 投稿者:meg  投稿日:2006年 2月19日(日)23時23分24秒
  初めまして、神戸在住の大草です、通称megで投稿しております。
ご先祖の出身地の徳島県(阿波の国)も大草氏の一大産地です。

貴家もご先祖が阿波の国に渡る前は愛知県三河か、三河から信濃(長野県)経由で阿波の国に渡られたのではないでしょうか、何れにしろ発祥は三河に100%相違ないと思います。

今から約700年前の西暦1300年頃は三河で足利尊氏の奉公衆(江戸幕府の旗本)だったのではないでしょうか、著名な姓氏名辞典でも全国の大草家はほぼ三河が発祥とされていますから、
700年をタイムスリップすればお互い親戚と言うことに成ります。徳川家や織田家や今年の大河ドラマの山之内家より三河、尾張では200年以上歴史が古い一族です。

ところで新しい明治時代の徳島の貴家については、現在徳島に総一郎さんという方がおられますから何か情報が得られるのではないでしょうか、こちらも楽しみにしております。
では又のご投稿をお待ちします。
 

自分は何処から来たのか・・・

 投稿者:H大草  投稿日:2006年 2月18日(土)12時56分16秒
  はじめまして。北海道在住の大草です。
最近、このホームページを見つけて、書き込みました。
私の曽祖父は藤五郎だそうですが、私が生まれたときにはもう他界していました。その父親、つまり私の曾曾おじいさんは亀蔵という名前だそうです。
祖父が長一です。祖父は私が16歳のときに他界しましたが、祖父の葬儀のときに始めて曽祖父のことを聞きました。曽祖父の藤五郎は徳島県から北海道に移り住んだそうです。
どなたか私の遠い親戚の方はいらっしゃいませんか?自分の家系のことに興味があります。
自分が何処から来たのかを教えて下さい。
 

都城大草氏のエピソード

 投稿者:meg  投稿日:2006年 1月20日(金)23時36分40秒
  平成9年に都城島津家の資料を管理されている川越氏に大草家の系図を尋ねたところ、手紙を戴いており、今日読み直したところ、次のような事が書かれていた。

宝暦年間(1751〜63)に都城島津家の21代目の殿様久般(ひさとし)公が江戸で亡くなった折り、大草善助と言う家臣が国家老の秘命を受け身内や、薩摩藩、幕府にも秘密裏に江戸に出向き久般公の遺骨を都城に持ち帰り葬ったとの古文書が都城島津家に残っているとのこと。

川越氏曰く、江戸時代の慣習として江戸で土葬した者は地元に帰葬してはいけなかったらしい、
川越氏の疑問は大草善之助がどうしてそのようなことができたのかということのようである。

小生も疑問であったが、一つの仮説が思い浮かんだ次第。
それは江戸に徳川幕府の直参旗本に同じ大草氏が居たことが背景にあったのではないだろうか?
もちろん川越氏は旗本大草氏が江戸にいることはご存じない筈だからなおさら疑問に思われたとおもわれる。

おそらく寺社奉行か勤番かで江戸に旗本大草氏が居たから大草善之助に特命が科せられたんではありますまいか?
ということは九州の果ての島津藩に仕えた大草家と徳川直参の旗本大草家とは宝暦年間時代には
まだ大草氏は藤原支流で三河の出であると言う共通認識があったのかも分かりません。
 

おっつととと!

 投稿者:meg  投稿日:2006年 1月 1日(日)14時04分37秒
  おっつととと・・こいつあア〜 春から粋なお誘い! 縁起がいいわいなア〜

どこのドイツかしらねがア〜? 新た手口にヤ おおそれいりやした。
 

大草淳一氏からの情報

 投稿者:めぐむ  投稿日:2005年12月17日(土)18時11分41秒
  10月初旬に東京在住の淳一さより次の情報を戴いておりましたので代わりにお知らせします。
既にご案内されているように淳一さんの曾祖父は小笠原氏の江戸屋敷で誕生されたとのことです。

このことがきっかけで足利時代から江戸時代まで約500年間、大草氏と小笠原氏との縁戚関係は連綿と維持されて来たことが発見できたのでは?と思います。そこで淳一さんからの情報を記載しておきます。

1,淳一さんの祖父:勝太郎さんの略歴
  ・明治14年東京うまれ
  ・明治43年に広島の呉から北海道室蘭町へ移住。
  *参照:現在も室蘭に一軒大草家有り


2,淳一さんの曾祖父:鑑之助さんの略歴
  ・出生地:万延元年(1860年頃)江戸浅草新堀町の小笠原家で出生
  ・原籍:江戸麻布
  ・明治時代に海軍工廠の仕事で呉へ、
  ・明治43年に呉から室蘭に転勤
  *参照:江戸麻布に旗本一つ大草家があったと思われる。勝太郎氏は父鑑之助氏の転勤に伴い      呉、室難へ移住されたと思われる。

3,鑑之助氏の父君:米蔵氏(詳細不明とのこと)
  *参照:当然徳川幕府の旗本(麻布に居住?)であったと想像される。

以上が淳一さんからの情報ですが、現在親戚は北海道にはおられないそうです。
(但し参照はメグムの推測)。

*江戸時代の幕臣や藩士は明治新政府になって士族となり、明治9年頃までは江戸幕府同様新政府から家禄が与えられていたようで、そして何年分かの一定の家禄を貰い、以後打ち切られ
士族も職探しや新天地を求め移住し大半が武士の商法で失敗し家族共々塗炭の苦しみの生活を強いられていくようです。しかし鑑之助氏は旗本の末裔として新政府の軍人となり恵まれていたのではないでしょうか

*現在北海道の大草さんでご先祖が勝太郎氏、鑑之助氏と何らかのご縁があったとの記録は無いものでしょうか?
 

松平氏から徳川氏への改名

 投稿者:大草めぐむ  投稿日:2005年11月 9日(水)12時37分39秒
  松平家の話題の延長として、家康が松平氏から徳川氏へ改名した背景が岡崎城内の資料館で販売されていた資料「14松平」に掲載されているので紹介します。

それを要約すると、家康は征夷大将軍職を朝廷から獲得するため系図を源氏に作り替えたとあります。

松平家は元々由緒ある家系ではなく、家康は武家の最高権力(征夷大将軍職)を朝廷に認めさせるためには伝統のある由緒ある家系への改名が必要と思ったようです。

徳川という家系は元々南北朝の武将「新田義貞」がでた家系で清和源氏新田家の系図に「得川」という家系があり2代で絶えています、この得川から徳川氏と変名して由緒ある清和源氏の家系として位置付け、征夷大将軍獲得に箔を付け後生に伝えたようです。

このことは天下を取った家康といえども自分の家系には何らかの負い目を感じていた現れではないでしょうか。
 

大草松平氏と大草松平家について

 投稿者:大草めぐむ  投稿日:2005年11月 6日(日)14時59分9秒
  先般来より、HPの大草家関連リンク集に大草松平について新たなリンクが掲載され、よく情報を検索されたものと@nkouさんへお礼申し上げます。

この作成者は埼玉県在住の松平但馬氏?のようですが自分のルーツ探索でまとめられたようでその内容には感心させられます。祖先は徳川家康の出た松平家の支流の形原松平家のようです。
松平家は武家社会最後の覇者徳川家で江戸城無血開城で資料も豊富でうらやましくもあり、逆に資料が多すぎて作業が大変だろうと思った次第。

ところで徳川氏は松平氏時代に三河地方で勢力を伸ばし14家にも増え、識別のためか14家が拠点とした地名をとり○○松平家と呼称しているようです。そのなかで三河大草地区を占拠した松平氏が14松平家の一つとして大草松平家として徳川家の資料に出ています。

そしてこのことについて上記松平但馬氏もHPで松平氏の側から大草氏を位置ずけて大草氏を松平一族のように見ておられるようですが事実誤認ではないかと思われます。

大草氏は松平氏より三河地方では歴史が古く松平氏の始祖が出た1300年代中期頃にはすでに足利尊氏に仕え、足利幕府2番奉公衆(徳川幕府旗本相当)であり、さらに足利氏より三河地方では歴史が古いのではないかと資料から読み取れます。

大草松平家の由来はたまたま後世松平家の一派が大草地区を占拠して拠点にしたからであり大草家とは地縁はあっても血縁関係にはあるとは思われません。血縁があれば今日愛知県内にも大草城址が残るくらいですから、徳川幕府では旗本ではなく1万石以上の大名に取り立てられていたのではないでしょうか

ここで三河大草城とその地区の占拠者を資料から追って見ますと、大草氏は1350年代に足利尊氏より大草地区を還補されるが、1358年尊氏の死後、仁木氏の守護代西郷氏に大草城址を追われ(1360年代)その後に松平氏が三河地方で勢力を伸ばし西郷氏を大草城から追放して大草松平家が発祥したと思われ、年代的に大草氏より新参の松平氏を大草氏のルーツにするには無理があるのではないでしょうか。

また大草松平氏のHPを作成された松平但馬氏も氏のルーツは松平氏であり松平氏のルーツ探索は松平氏の始祖までであり、松平氏より古い大草氏までは探索されておられないものと思われます。
 

礼状掲示

 投稿者:大草めぐむ  投稿日:2005年10月23日(日)14時02分33秒
  去る10月9日に幸田町大草神社のお祭りに参拝しましたが
昨日礼状が届きましたので大草家の方々にご案内致します。

拝啓仲秋の候、貴殿にはいよいよご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて今般の大草神社の例大祭には、御参拝の上、多大のご芳志を御奉納賜り
厚く御礼申し上げます。

おかげをもちまして式典も厳粛裡に執行され、又余興も大勢の氏子の皆さんの参加を得て、
盛大に終了することができ、深く感謝致すところであります。

これからもこの地域の祖神さまであり、心のよりどころである大草神社の発展のため、
一層のご支援をお願い申し上げますとともに
皆様のご多幸をお祈り申し上げお礼のことばと致します。

額田郡幸田町大字大草字弥宣屋敷21  大草神社
 

河合ナオミさんへ

 投稿者:大草めぐむ  投稿日:2005年10月20日(木)23時33分14秒
  今日、小生も小牧市大草神社をゴーグルで検索したところ、大久佐神社が出てきました。
神社では大草棒の手という武術が秋祭りに奉納されているようですね。
この武術は江戸時代に新陰流の武術家がこれまで大草地区に伝承されていた棒術をもに復元したとの解説があったようです。ナオミさんのお陰で新たな発見が出来ましたこちらもお礼申し上げます。

それと大草棒の手の武術は小牧市の大久佐神社だけではなく愛知県内の神社の何カ所かで奉納されているようですが、これは大草城址が愛知県内5カ所にあったことと何か関連があるのではないかと新たな疑問が湧いてきたところです。

それと36歌仙の歌人のうち何人かの絵札が江戸時代に大久佐神社に奉納されたとか出ておりましたが、三河、尾張に武士が進出したのは鎌倉幕府成立後の1194年頃のようですが、もともとこのような貴族趣味のものを関東の武士が持ち込むはず無い様に思います。

武士が進出するまでは京都の朝廷が現在の一宮市辺りに国府を置いて貴族が尾張、三河を支配しており、鎌倉幕府成立後朝廷の力は落ちて来ましたが、それでも150年間くらいは幕府の守護と並立して貴族も国守としていたようです。

ご存じのように藤原氏は貴族の主流でしたから、尾張三河の歴代国守のうち3割以上は藤原氏ですから、よってこの絵札は元々関東の武士からではなく貴族か貴族に仕えていたさぶろう(サムライ)が大久佐神社に奉納したのが元祖で、後日江戸時代に復元したのではないかとも思われます。
以上のようなにみてくると、先に藤原支流と申し上げた大草氏がまず小牧か長久手に築城し地名が大草となり大久佐神社が発生したとしてもけして不思議ではありません。

以下の記述も推察ですが、このように周りが大草なのに大久佐神社のみ「大久佐」とは突飛で不自然であり、おそらく大久佐神社は地名の大草にちなんで大久佐を充てたのでは無いかと思われます。 参考までに大草棒の手と大久佐神社の絵札はゴーグルで検索しました。
以上新たなご提案まで。
 

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